「鈴木大拙コロンビア大学セミナー講義」<3>
「鈴木大拙コロンビア大学セミナー講義」 下巻
鈴木 大拙 (著), 重松 宗育 (その他), 常盤 義伸 (その他) 2017/11 出版社: オクターブ 単行本: 320ページ
★★★★★
1)絶対の心は、それ自身は真如として大乗の体だが、相をもって我々に現れるので、我々の側からは、体、相、用の三つの面において理解される。絶対の心がその真如面において理解されるとき、それは体であり、体としては、それは如何なる相対的な思考法にも従属させられることはあり得ない。
絶対の心が真如として現前するとき、我々がその真如の体を理解しようとするとき、つまり絶対の心がその真如の体を我々の日常の心に理解させようとするとき、それは自己を否定する。
絶対の心はなんとかして自己表現をしたと願い、そしてこの表現を我々は相と用として受け止める。絶対の心が自己表現をしたいと願い、そしてこの表現を我々は相と用として受け止める。
絶対の心が真如としてある限り、それは変化しない。それが相と用として自己表現するとき、絶対の心は生滅に自らを委ねる。絶対の心は一面において絶対の真如であり、永遠にそのままであり続けるが、自己表現するときには、絶対の心は相または用を持つものとなる。そして、ここに消滅のこの世界、生成の世界が現出する。
それで、絶対の心が人間の知力にとって想像ないし理解できるものとなる場合、我々はそれを三通りに解するということができる。しかしこれらの三通りは、絶対の心の在り方の心ではなく、相対的な在り方の心である。だが、それは相対的な在り方においても、なお絶対的で言葉を超えており、実際我々はそれをどう理解しようもない。
何ものであれ、体の面から考察さえるならば、そこに真如、平等性、不増、不減があり、そのものは常にあるがままである。この絶対の心は一切の可能性ーー仏教哲学者たちの言う一切の徳ないし特質を内包する。
こおの点でそれは「アーラヤ識」、一切の可能性を含む貯蔵庫、一切のものがそこから現れ、あるいは可能性をもって保持される器と言われる。それが現れる形が幽である点で、それはタターガタ・ガルバ、如来を生むもの、ブッタの母胎、母体(如来蔵)とも言われる。
これらのものが現れて相対的な存在となるとき、善と悪とのあらゆる種類のものが現成するーーここっで善・悪と言われるものはあくまでも仏教での用語であて、道徳的というよりは哲学的な意味合いの言葉である。
この絶対の心は、真如として、また生滅として理解できる。すなわち、絶対的な心と相対的な心とである。しかし絶対の心は、真如と生滅とをも超える。それはエックハルトの神性の概念に相当する。真如は神に相当するが、エックハルトは、時によって神を神性の意味で用いることがある、神は真如としての絶対の心に相当する。この点でエックハルトは、仏教的な視点から言えば、はるかに個人主義的になっている。下巻p44「講義V『大乗起信論』の基本的思想と禅思想」
2)当ブログの言説に置き直せば、用としてPC、相としてのSNS、体としてのコンシャス・シンギュラリティ(CS)だ。相対としてCSを見るのではなく、絶対として全体をCSとみなすことができる時、一切の可能性を含む貯蔵庫、アーラヤ識、如来を生み出す母胎となりうる。ないしは、そうでなければならない。
3)真如、タターガタ、Suchness。
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