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2018/01/28

「鈴木大拙コロンビア大学セミナー講義」<4>

<3>からつづく 

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「鈴木大拙コロンビア大学セミナー講義」 下巻
鈴木 大拙 (著),‎    重松 宗育 (その他),‎    常盤 義伸 (その他) 2017/11 出版社: オクターブ 単行本: 320ページ

1)慧能は一冊の書物も著作しなかったが、彼の少数の弟子たちが各々師の説教を書き留めておいた。それらの覚え書きが集められて一つの文書が作られた。日本語では「六祖壇経」と呼ばれる。

 この文書は秘密のうちに弟子から弟子えと伝えられて、慧能の死後非常に尊重された。今ではそれは禅研究のきわめて重要な記録となっている。

 慧能は中国では第六代の祖師だったが、実際には彼は禅の初祖であり、彼の「経」は禅の本質を含んでいる。テキストとしては、弟子から弟子へと伝えられる過程で追加部分が加わり、何種類ものテキストが存在した。

 「壇経」の名がつけられた理由は、おそらく慧能が壇上から説教したためであろう。彼以前にこのような大衆向けの教えが仏教の教師によって提供されることはなかった。下巻p169 「教義Ⅵ 禅における本願---衆生心が一切衆生心に目覚める」

2)禅は第一に自己を強調する。真宗は他者を第一とする。しかしこの他者とこの自己とは、相対的な解釈をされてはならないものである。真宗の「他力」の概念は「自力」との正反対だと理解されてはならないし、自己も、他者に対立させられてはいけない。 

 なぜなら、無我が自己、自己が無我なのだ。真宗の他力教義で、アミダは向こう側に立っていると考えられているが、これは真の自己の客体的回想であって、心理的な皮相な自己のではない。 

 そして禅が理解する真の自己は、相対的自己の反対の極にある。それゆえ禅の自己は真宗のアミダに相当する。アミダは、すべての人々を覚りに至らせるために流浪した。もっとも、真宗は浄土に生まれること以外には、覚りの教義を教えることは想定されていない。

 しかし、より一層詳しく調べてみると、浄土に生まれることの目的は浄土で覚りを得ることであって、そこに留まることではない。浄土は穢土よりは、よほど快適に造られていると想定されていて、そこで覚りを得ることはさほど難しくない。

 浄土に生まれた人々は、その後ある時まで待つには及ばない。浄土に生まれたそのときに覚りが成立する。下巻241p 「教義Ⅵ 禅における本願---衆生心が一切衆生心に目覚める」

3)もしも自然が真空状態を嫌うとすれば、禅は言葉と観念を嫌う。我々の心は不断に観念の動きに沿って働き、我々は観念が本当のものだと考える。ある程度まではその通りだが、しかし具体的な事物のようには客観的には存在しない。禅は、我々に個別の個人的な心の次元から、目覚めた存在全体としての心、一切衆生心に進んでもらいたいと願う。下巻p289「教義Ⅵ 禅における本願---衆生心が一切衆生心に目覚める」

<5>につづく

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