「百寺巡礼」 第七巻 東北 五木 寛之 <2>
<1>からつづく
「百寺巡礼」 第七巻 東北 <2>
五木 寛之 (著) 2009/03 講談社 文庫: 280ページ 単行本 2004/12
★★★★★
1)思えばこの巻に登場する寺院の大半はかつて参拝している。一度ならず数回訪れている寺院もある。まだ訪れていない寺院もまた、周囲の風景がどことなくつながって行って、すでに参拝済みのような気分になる。
2)しかしまた、逆に、かつてすでに参拝済みとしてしまっている寺院には、さてこのような云われ因縁があったのかと、新たに知らされ、自分は一体何を見てきたのやら、とあきれてしまう場面にもたびたび出くわした。
3)私たちのこころのふるさとはどこにあるのか。
それを探しに今日も旅に出る。
百寺巡礼。
日本列島の北から南まで、
二年間に百の寺を訪ねる旅。
旅の終わりに何が見えてくるのか。
風に吹かれて、今日も寺への道を歩く。表紙見返し
4)テレビ番組でも毎回流れるキャッチフレーズ的なナレーションである。どこか良いようでもあり、どこか引っかかる言葉の流れでもある。番組として、連載記事として、シリーズ単行本として、あるいはガイドブックのムックとして、数を重ねる口実に使われているだけではないか、とさえ思える。
5)こころのふるさと、とは何か。それをなぜに旅に探さなければならないのか。なぜ百寺なのか。神社じゃだめか。なぜ日本列島なのか。なぜ二年間なのか。二年がたてば旅は終わるのか。言い出したら切りがない。まんまと引っかけられているわが好奇心に気づき、ヒヤッとする。
6)地球人としてのスピリチュアリティとは何か。
それを探しに今日も書を手にする。
読書ブログ。
図書館から借りだした四千冊を、
十数年に渡って読み、書き綴る、日々。
その終わりに何が見えてくるだろう。
ちょっとした好奇心にかられて、今日も図書館に足を運ぶ。
7)百寺巡礼のキャッチコピーをお借りして、当ブログのスタート地点を言葉にすれば、以上のようなセンテンスになるだろうか。最初の最初はこれほど明確ではなかったが、おそらく300冊とか400冊目あたりになった時は、そのような心境であったことは確かだ。
8)当然最初は十年間とか、四千冊などという具体的な相はなかった。結果としてそうなったというだけだ。そして、「旅の終わりに」見えてきたものは、確かにある。旅は終わりに近づいているのだ。いや、終わったと言っても言い過ぎではない。あるいは、終わらせなければならない。
9)今見えている相は三つ。時間であり、空間であり、存在だ。もちろん、かなり具体性を伴った、緊急性を帯びたそれぞれの三つの相だ。
10)なんだ、まだ絞り込めていないのか、とも思うが、3・11前後の七つの相に比べたら、はるかに簡略化され、より具体化されている。相互に関連しているのは当然のこととして、ひとつひとつがはるかに隔たっているとも言える。
11)私ひとりの視座はほぼ固まっている。固まらざるを得ない。そしてそこから、その一点から広がり、湧き出るものがある。それは広く、高く、深く、あるいはどこかで無限性へと接触する。
12)この書を括りながら、またまたいつものように付箋をたくさん張り付けてしまった。その中から、重要と思える部分を抜き出しておこうか。手間がかかるとするなら、そのページの画像を張り付けておこうか。しかし、今夜はどうも面倒だ。手作業で行う旅とは別の次元に、書を閉じたあとの私の想いは漂っている。
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