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2018/03/04

「鈴木大拙コロンビア大学セミナー講義」<6>

<5>からつづく 

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「鈴木大拙コロンビア大学セミナー講義」 下巻
鈴木 大拙 (著),‎    重松 宗育 (その他),‎    常盤 義伸 (その他) 2017/11 出版社: オクターブ 単行本: 320ページ

1)我々が最高の覚りを得るとき、一心が現前する。一心が現前するとき主と客との分岐は存在しない。我々が主と客との世界をもつ限り世界の中で我々は、それらについて外に向かって話さなければならない。無意識の意識、意識の無意識の中の主と客が、我々のいる段階の特性を表す。

 しかし我々がまさしくこの一心に達するとき、すなわち絶対の覚りに到達するとき、我々はそれについて何も言うことはできない。それは無念の状態と呼ばれる。「無念」は非常に重要な、しかも理解することのきわめて困難な述語である。

 「念」は、意識の一単位である。意識は多くの念から構成される。仏教心理学の概念では、それは意識の最も短い波である。念の梵語「チッタ・クシャナ」は、意識を意味する心プラス時間の最短区分、「思考の一刹那」の意味である。p87「無念と覚り」

2)無念は、禅において非常によく使われる。たいていの人は、無念とは意識がすべて払いのけられたまったくの無意識状態だと考える。しかしこういう考えはまだ相対的な平面にあるもので、真の覚りが可能になる前に克服されるべきものである。p89同上

3)禅は、この世の外に出て行かない。ぜんはこの世で働く、しかしこの世の相対性に限定されることはない。禅は人々に、相対性の世界に生きていながら、その一部にならないようにと教える。

 この世にあることは、サマンタパドラの生き方に従うことを意味する。この世を超えることはマンジュシュリーが自己を主張することを意味する。166「覚り体験の特徴。対象に対する思いがない、絶望がない、足跡を残さない、境界がない」

4)禅には何か実際的なものがあることを我々は知っている。ある一つの客体が完全に主体と一体となるとき、客体と主体とは一つになり、この一体化からあることが起こるとき、ある経験が生じる。 

 主体と客体は完全に一つだが、それはただ普通の結合状態ないし一体化ではない---この状態から覚りが来て、すべてのものはその全体性において受け入れられる。p283 「禅は我々に個別の心から存在全体とおしての心、一切衆生心に進んでもらいたいと願う」

5)もしも自然が真空状態を嫌うとすれば、禅は言葉と観念とを嫌う。我々の心は不断い観念の動きに沿って働き、我々は観念が本当のものだと考える。ある程度まではその通りだが、しかし具体的な事物のようには客観的には存在しない。

 禅は、我々に個別の個人的な心の次元から、目覚めた存在全体としての心、一切衆生心に進んでもらいたいと願う。289p 同上

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