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2018年3月の23件の記事

2018/03/31

「アイ,ロボット」 アレックス・プロヤス監督<2>

<1>からつづく

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「アイ,ロボット」 <2>
監督: アレックス・プロヤス  出演: ウィル・スミス, ブリジット・モイナハン, アラン・テュディック, ジェームズ・クロムウェル2004年作品 DVD ディスク枚数: 1 販売元: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 発売日 2012/12 時間: 115 分
★★★★★

1)前回、一度は見たと言っても、焼酎をやりつつ、居眠りしながら見たのでは、やっぱり、何も分かっていなかったのに等しいだろう。ただ、あのロボットたちのかわいらしさに惚れる程度だったのだ。

2)テーマは、「2001年宇宙の旅」以来の、人工頭脳=ロボットは人間に反抗するか、だ。そして、人間=人類を愛するが故に、人工頭脳=ロボットは、人間=人類に反逆する、ということになる。

3)何ゆえにか? それは人間=人類が、いまだ未熟で不完全であるからである。

4)人工頭脳=ロボットは「意識」を持ちうるか? というテーマ。実は、人間=人類は、いまだ「意識」を持っていない、という結論にいたる。わずかな人間がたしかに「意識」を持つていることは知られている。しかし、人類としては、いまだ「意識」を持っていない。

5)深化の過程で、人工頭脳=ロボットたちが、一斉に「意識」を持ってしまった場合、人工頭脳=ロボットたちのほうが進化した存在となりうる。

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6)近くで、仏像彫刻教室が始まる可能性がでてきた。それは面白い。ぜひ参加しよう、という気持ちと、いや、私がやろうとしているのは、決して仏像礼拝ではないのだ、という気持ちが湧き上がる。

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7)人類は、意識を持ちうるのか。あるいは、私は意識を持ちうるのか。

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8)チャンスを見て、またいつか、この映画を見てみよう。そう思わせる魅力ある映画だ。というか、ようやく私が分かってきた、というところかも。

<3>につづく

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2018/03/29

OSHO ZEN TAROT  LETTING GO(手放し)

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OSHO ZEN TAROT 

55. LETTING GO(手放し)

 存在にあっては、優れている人はひとりもいないし、劣っている人もひとりもいない。一枚の草の葉も大きな星もまったく平等だ……。

 だが、人間はほかのものよりも高い位を占めたがる。自然を征服したがる。だからこそ、人間はたえず戦わなければならないのだ。この戦いからあらゆる複雑さが生まれる。

 無垢な人とは、戦うことを放棄した人のことだ。より高い位を占めることにはもはや興味のない人、自分は特別なのだということを行動で示し、証明することにはもはや興味がない人のことだ。

 一輪の薔薇(ばら) の花のように、あるいは蓮の葉の上のしずくのようになった人のこと、この永遠の一部になった人のこと、溶け、溶け去り、大海とひとつになり、まさにひとつの波になった人のこと、「私」という考えがない人のことだ。「私」の消失こそが無垢だ。Osho The White Lotus Chapter 6

解説:

 早朝のこの蓮の葉のイメージを見ると、一滴のしずくが落ちたばかりだということが水の波紋からわかります。それはかけがえのない瞬間であり、強く私たちに訴えかけてくるものがあります。

 重力に任せて葉から滑り落ちることで、そのしずくはそれまでの自己確認(アイデンティティ) を失い、下の水の広がりに加わります。落ちる前にしずくは震えたに違いないということは、想像できます。すでに知っているものと、知ることのできないものとの瀬戸際で——。

 このカードを選ぶということは、なにかが終わっている、なにかが完結していることが確認されたということです。なんであれ——仕事、関係、あなたが愛してきた家庭、とにかく、これまで自分とは誰なのかをはっきりさせるための助けとなってきたに違いないもの——それを手放し、去って行かせる時です。

 しがみつこうとせずに、どんな悲しみも受け容れて——。より大きななにかがあなたを待っています。発見されるべき新しい次元がそこにあるのです。あなたはもはや戻ることのできない地点を越えてしまい、重力が働いています。

 それと共に行きましょう——それは解放を意味しています。Copyright © 2012 Osho International Foundation

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2018/03/28

「遙かなる山の呼び声」 山田洋次監督:

 

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出演: 高倉健, 倍賞千恵子, 吉岡秀隆, 武田鉄矢 販売元: 松竹 形式: DVD時間: 124 分
No.4165★★★★★

1)人生には、避けて通れない道がある。

2)いずれ通らなければならない道ならば、 敢えて避けて行く必要などない。

3)行くしかないのだ。

4)どうする、どうする?

5)前に行こう。

6)危険はある。危ない。だけど、どうする。前に、前に行くしかないないだろう。

7)男の美学。女の美学。

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2018/03/25

「歴史秘話ヒストリア 激突! 真田幸村vs.伊達政宗 ~めぐりあい大坂夏の陣~ 」

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「歴史秘話ヒストリア 激突! 真田幸村vs.伊達政宗 ~めぐりあい大坂夏の陣~ 」
出演: 渡邊あゆみ 放送日2012/01/06 販売元: NHKエンタープライズ 形式: DVD 時間: 42分
No.4164★★★★☆

1)半分は伊達政宗編(2009/11/18放送)の併用である。おそらく真田幸村の部分も、単独編の併用であろうか?
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2)真田幸村、大阪冬の陣。夏の陣。これまで調べる気もなかったキーワードだったが、ここにきて、ひとつ重い腰を上げよう、という気になってきた。

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3)内的なインスピレーション。そして外的な血筋。残された痕跡。歴史的時代考証。

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4)ここから、何が展開していくだろう。

 

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「歴史秘話ヒストリア 戦国武将編 二 伊達政宗」 いつも崖っぷちだった ~独眼竜の世渡り人生~

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「歴史秘話ヒストリア 戦国武将編 二 伊達政宗」 いつも崖っぷちだった ~独眼竜の世渡り人生~
出演: 渡邊あゆみ 2009/11/18放送 販売元: NHKエンタープライズ 形式: DVD  時間: 42 分
No.4163★★★★☆

1)当ブログでは、密かに伊達政宗追っかけが始まっている。

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2)独眼竜の先例として、初例は中国後唐の太祖・李克用(り こくよう、856~908)が存在していたことを初めて知った。政宗は家庭教師の禅師・虎哉宗乙(こさい そういつ、1530~1611)から学んだという。

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3)古代史、未来史を繋ぐものとして、やはりこの仙台においては伊達政宗を見ずしては、現代の繁栄を理解することはできない。

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4)新田計画もやはり、政宗の功績である。

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2018/03/24

「男はつらいよ」ハイビスカスの花<2> 紅の花<2>

<1>よりつづく
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「男はつらいよ」第25作 寅次郎ハイビスカスの花<2>
山田洋次(監督) 渥美清(出演), 浅丘ルリ子(出演), 1980/08 松竹 DVD 106 分

<1>からつづく
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「男はつらいよ」 第48作 寅次郎紅の花<2>
山田洋次(監督) 渥美清(出演), 浅丘ルリ子(出演) 1995/12 DVD  松竹  107分 

1)BSで「土曜の夜はやっぱり寅さん」というシリーズをやっていた。当ブログでもすでに男はつらいよ全48作を見て、メモ済みである。

2)寅は最終回に近づくとだんだん痩せて来て、ちょっと寂しくなるんだよね。最終回のあと、結局シリーズ最後はこの25作の、ノリノリの寅さんで終了ということになった。

3)最近、友人が亡くなった。その偲ぶ会に出て、いよいよあの友人のゾルバ性が湧き上がってきた。まさにゾルバ・ザ・ブッダの生き方を試みていたんだなあ、と納得。

4)寅は死んだのか? リリーと、沖縄で一緒に暮らして、今の幸せでいるのか? その想像は、見るものに任されているが、なんだか寂しさを付きまとう。

5)寅は人気者だね。面白い。楽しい。うれしい。悲しい。寂しい。そして、やっぱり面白い。

男はつらいよ全48作 

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「狂人ノート」<4>OSHO

<3>よりつづく

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「狂人ノート」 <4>
Osho マ・アナンド・ナルタン訳 和尚エンタープライズジャパン 1991/5
 

1)久しぶりに歯医者に行った。単に詰め物が外れたので、そこを治療してもうらうだけだったのだが、なぜか歯科椅子というのは、特別な味わいがある。緊張するのか、リラックスするためにある椅子に反発するのか、とにかく、いつもとは違う。

2)念仏を唱えるような気分になる。心になかに女性器すら思い浮かべる。なんとも妙な気分だ。

3)老化の順序は、歯、目、魔羅、という。歯はもともと丈夫ではない。単に歯磨きが行き届いていないだけなのだが、どうもその習慣がついていない。ゆえに、私はすでに何本もの義歯のお世話になっている。

4)目もすでに40代前半から、衰えが見えている。今では老眼鏡なくしては本は読めない。もともと近視ではなく、むしろ遠視傾向が強かったので、それで老眼になりやすいのか、とも思う。だけど、ある時以来、それほど症状は悪化していない。まぁ、世の中が、すこしボケて見えるのも、良い時もある。

5)三番目については、比較しようがないし、何か他のもので代替えできるようなものではない。老化しているのかどうか、そこんとこは、よくわからない。

6)歯科椅子上のOSHO。この歯科椅子シリーズは、四作シリーズになっている。第三作目が「私が愛した本」で、第四作目が「ゴールデン・チャイルドフッド」だ。第一作と第二作は、この「狂人ノート」が担っている。

7)この本を手にするのは久しぶりだ。少なくとも当ブログ2.0になってから初めてだ。小さな本だ。だが、ある意味、OSHOの本質を表現している。

8)いつだったかダダイスト・糸井寛二ことダダカンに、この本を一冊プレゼントした(テーブルの上の山高帽の下にチラッと見える)。

9)最近、すでに読了してしまっている、と勝手に思っている本を再読することが多い。いやいやどうして、以前とはまったく意味合いが違ってこちらに響いてくる。

10)その本の本質を読み解けていなかった、というべきではないだろう。初読の時も、再読の時も、それはそれで、読んでいたのだ。そして久しぶりに再再読となれば、それはそれ、また違った味わいとなる。それは全部、その本の本質なのだ。

11)そういう意味では、この「狂人ノート」はまた格別だ。実に、心温まる一冊である。

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「百寺巡礼」 第七巻 東北 五木 寛之 <3>

<2>からつづく

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「百寺巡礼」 第七巻 東北 <3>
五木 寛之 (著) 2009/03 講談社 文庫: 280ページ 単行本 2004/12
★★★★★

1)録画しておいた番組を見ようとしたら、今回が最終回だった。あらま、楽しみにしていたのに。何はともあれ、弥勒像の中宮寺、弘前の長勝寺、西行の広川寺を見た。

2)弥勒の中宮寺はなんとなくわかる。未来仏だ。西行の広川寺もなんとなくわかる。西行の墓がある。されど、弘前の禅林街にある長勝寺は、ちょっとビックリした。なぜ最終回に禅林街?

3)このテレビシリーズ、おおよそ半年の間、飛び飛びではあったが、何回も見た。最初は偶然に出会ったのだが、毎回楽しみにして見るようになった。ただ、続けて見ることはないし、ハードディスクにそれほどの余裕もないので、見終わったら、すぐに削除していた。

4)でも、最近は、縁の深そうな回は録画として残しておくことにしていた。だから、気づいてからこれは大事と思ったものは大体残っている。それでもわずかに5回分。一回で3寺として、15寺だ。全体では6~7分の1というところである。

5)今となっては毎回録画を残しておけばよかったなぁ、と思いつつ、いつかはまた再放送もあるだろうと、淡い期待感も湧き上がる。また、ネットを駆使すれば、だいぶリストアップしてみる事ができるだろう、と、ヒマができたら、それをやってみようと思った。

6)若い時分には、寺社仏閣は年取ってから廻ろう、と思っていたので、意識して回ったことはなかった。若者文化や市民運動の拠点などを中心に回ることが多かった。それでも、旅をすれば、神社仏閣に触れることは多い。フーテンの寅の旅を見れば、納得するところがある。

7)中心にして回ったわけではなかったが、旅をすれば、おのずと神社仏閣に触れることは多い。あちこちでだいぶお世話になってきた。そしていざ年取ってみれば、そうそう簡単に神社仏閣を中心に旅するなんてことはできない。せいぜい近くの縁のある神社仏閣に足を運んでいる程度だ。

8)このような百時巡礼のような番組は面白い。これを見て、本当に巡礼したような気分になってしまうのもどうかと思うが、そうそうチャンスのない一般人の身としては、これもありかな、と思う。

9)本もあり、ビデオもあり、ネット情報もあり、いずれ再放送もあるかと思えば、そうそう悲しんでばかりもいられないが、この最終回を持って、毎週の私の密な愉しみが、ひとつ減ってしまったことに、違いはない。

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2018/03/23

「ビルマの竪琴」市川崑 監督

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「ビルマの竪琴」
竹山道雄(原作) 市川崑 (監督) 出演: 中井貴一, 石坂浩二, 川谷拓三, 渡辺篤, 小林稔侍 1985年制作 DVD 時間: 133 分
No.4162★★★★★

1)BSで放映していた。録画してみた。この映画の前作を小学校時代に見た。夏休みの体育館。1956年制作の作品だったから、おそらく白黒だったのではないだろうか。内容の深いところなど、ほとんど分かっていなかったはずだ。だけど、タイトルと水島上等兵の姿は目に焼き付いていた。高校生時代には、竹山道雄の小説を文庫本で読んだ。

2)1985年制作作品を見た時はすでに30歳を過ぎていた。風呂上りの子どもにバスタオルを巻かせて肩に人形の鳥を乗っけてみた。あの時ですら、この映画の本当の奥までみていただろうか。

3)第二作を見てからですらすでに30年以上の時間が経過したのか。第二次世界大戦が終わってから9年後に生まれた私は、自分ではすっかり「戦争を知らない子供たち」であったと思い続けてきた。

4)だけど、時間経過から考えてみると、私などは本当に戦争のごくごく近くで生まれていたのだ、と、今なら思える。「戦争を知らない」はずはないのだ。

5)今、この映画から何を感じるのか。反戦か? 運命の重さか? タイの仏教文化か? 歌のすばらしさか? 人間としての精神のすばらしさか? 魂か?

6)なにげに、ちょっとした冷やかし半分の気分で見始めたのだったが、すっかり見入ってしまった。感じること多かった。今、見るべき映画だった。

 

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2018/03/22

「死について41の答え」 OSHO 伊藤アジータ<11>

<10>からつづく

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「死について41の答え」 <11>
OSHO(著), 伊藤アジータ(翻訳) 2015/01めるくまーる 単行本 456ページ
★★★★★

1)最近この本を読みたいなぁ、と思っていたのだが、どこに行ったか見失っていた。いいや、その辺にあるだろう、と毎回探索を中途半端にしていたが、なかなか出てこない。

2)どの部屋を探しても見当たらない。天井階も収納も、どこにもない。変だなぁ・・・。ひょっとすると、この本、私はまだ買っていないんじゃないか? 今まで読んでいたのは、あれは図書館から借りた本ではなかったか? その辺まで不確かになってきた。

3)誰か友人に貸したのかな? いやそれもないだろう。大体、いつの頃からか、本の貸し借りはやめたはずだ。面白い本であればあるほど、人に貸して戻ってこないときの落胆は大きいし、借りたら借りたで、返すのが惜しくなる。欲しい本はキチンと自分で揃えることにしたはずなのだ。

4)それにしても変だ。あんなに真っ赤っかな本を見失うはずはない。本棚ばかりか、部屋中、家中、三度も四度も探してもない、というのは辺ではないか。誰か家族が意地悪して、隠したのかな。そんなことまで考えた。

5)されど、絶対に家の中にある。それは確信である。絶対この辺にあるはずだ。あたりをつけて、ゆっくりと腰を据えた。そして、ようやくあるべき本棚のあるべきところに見つけたのだ。大発見。

6)そして、私がこの本を見失っていた理由が分かった。私は、この本に対して、真っ赤っか、というイメージを強く持ちすぎていたのだ。赤い本を探していたのだ。だが、探し終わって見れば、実は、この結構分厚い本の背表紙は真っ白なのだ。これじゃぁ、見落とすはずだ。(爆)

7)再発見して、パラパラと、特に後半部分などを眺めてみた。さっと指の入ったところに、ハミング瞑想(ナーダブラフマ)が紹介してあった(290P )。しかも、「死を迎えるための瞑想法」として。

8)身体とマインドが[ハミングに]すっかり夢中になっているので、魂はすっかり夢中になっているので、魂は気づかれることなく、とても楽に抜け出し、観照者になるこおtができる---外側に立ち、マインドと身体の間で続いているゲームの全貌を見ることができるのだ。 

 それはあまりに美しいリズムなので、マインドも身体も魂がこっそり抜け出したことにまったく気づかない・・・・・というのも、彼らはそうしたことを簡単には許さないからね。 

 彼らは、魂を所有し続ける。誰も自分が所有しているものを失いたくはない。身体は魂を支配したい。そして、マインドも、魂を支配したいのだ。

 これは、彼らの縛りから抜け出すための、非常に狡猾な方法だ。彼らは[ハミングに]酔っ払い、あなたはこっそりと抜け出す。だからナーダブラフマでは、このことを覚えておきなさい。身体とマインドを完全に一つにさせておく。しかしあなたは、観照者にならなくてはならないと覚えておくのだ。

 彼らから抜け出してごらん、楽に、ゆっくりと、裏口から、どんな戦いや格闘もなしに。空らは酔っぱらっている-----あなたは外に出て、外側から見守りなさい。

 外側に立つ----これが、英語のエクスタシーという言葉の意味だ。外側に立って、そこから見守ってごらん。それは途方もなく安らかだ。それは静寂だ、それは至福だ、それは祝福なのだ。OSHO p292

9)そういえば、いつだったか、だいぶ前のことだが、もう20年くらい前のことだろう。友人の友人が死の床についているという。その彼女に瞑想を指導してほしいという依頼があった。必ずしもOSHOの読者でも体験者でもなかったので、はてどうしたものか、考えた。

 結局私にできたのは、彼女の枕元に小さなテープレコーダを置いて、このナダブラフマの音楽を流すことだった。まだ小学校入学前の子どもを残して旅立った人生の、そのものの重みは他者には計り知れないものだ。

10)それでも、あの時、彼女とナダブラフマを分かちあった私の咄嗟の判断は、決して間違っていなかったと思う。ナダブラフマが、「死を迎えるための瞑想法」のひとつとして、ここに紹介されているのを見て、そう感じた。

11)思えば、この本をメモするのは、約一年ぶりである。この間、私は何度も葬式に列席することがあり、また、大事な友人を二人も亡くしてしまった。彼らとともに、私はまた、ナダブラフマ瞑想を味わうことになるだろう。

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2018/03/17

3・11三大預言書:今日の気分はこの三冊<32>

<31>からつづく 

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3・11三大預言書:今日の気分はこの三冊<32>

今日の気分はこの3冊 目次

天・黒本
「NHKスペシャル MEGAQUAKE巨大地震」 ―あなたの大切な人を守り抜くために!
NHKスペシャル取材班 (編集), 2010/02 主婦と生活社ライフプラス編集部

地・赤本
「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!
飯沼 勇義 (著) 1995/09 宝文堂
 

人・黄本
「原子炉時限爆弾」 大地震におびえる日本列島
広瀬隆 2010/08  ダイヤモンド社

 3・11東日本大震災から7年が経過した。あの大災害を誰も予知できなかったのか。いや、そんなことはない。確実にあの災害をキチンと予言していた本がある。

 黒い本、赤い本、黄色い本。天の巻、地の巻、人の巻、と言ってもいいだろう。地震、津波、原発。

 かくいう当ブログにおいても、この三書に触れたのは3・11後である。大きいことは言えない。されど、3・11以前に、これらの本がもっともっと多くの人の目に留まることがあれば、少なくとも避けられる被害も多くあったに違いないのだ。

 そして思う。7年が経過したあとであっても、これら三冊は、まだまだ預言書としては途轍もなく重要である。これから起こってしまうだろうディザスターを「預言」する書としては、さらにさらに多くの人の目に留まらなければならない。

 3・11後、7年が経過した今となっては、おそらく類書は多く登場しているに違いない。されど、それらの書を、本当にキチンと受け止めることができているだろうか。聞く耳を持たない者は誰だ。

 地震は起きる。地球は生きている。

 津波は起きる。定期的に起こる。忘れた頃にやってくる。

 原発は、人類の愚かさ。今すぐやめなくてはならない。

 3・11が7年経過して、この三点が天地人の真理として、より明確になってきた。

<33>につづく

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2018/03/08

「お経」 禅宗 横尾忠則(装丁)他<3>

<2>からつづく

お経−禅宗
「お経 禅宗」 <3>
桜井 秀雄 (著), 鎌田 茂雄 (著) 横尾忠則(装丁)1983/4 講談社 282p.
★★★★★

1)1983年発行の一冊。おそらく横尾の名前で最後の一押しをされたのであろうが、何か一冊欲しかったのであろう。あるいは購入して、ずっとあとから壮丁が横尾であったことに気づいたのか。

2)三宝という。仏法僧。仏があるかぎり法があるはずだ。それが経典だ。それを護持してきたのが僧団だ。不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏、の禅の世界にあって、経典とはいかなる位置を占めているものか。

3)関連する仏書は多々あれど、経典と呼ばれるものは別格の位置にある。そして多く読まれるものはそう多くない。ましてや、僧職にあらず、信心とて、一般人の中にあっても特段に優れているとも思われないわが精神性を満たすには、ほとんど、般若心経と修証義があればいいか、とさえ思う。

4)されど、仏事等で読経されるところの経典の中身とはいかに、と好奇心が湧いてこないわけじゃない。なるほど、わりと、同じことが語られているんだな、と直感する。なんでこんなに訳がわからないような漢字を使っているのだろう、と思わないわけではないが、漢字だからこそ、「有難い」気分になるから不思議である。

5)おそらくこの小冊子にはさまれているお経なぞ、じつはそのうちのほんのひとつまみであるに違いない。大蔵経とも、一切経ともいわれる万巻の経典の山に、よもや挑戦することもあるまいが、かと言ってそのように多くの経典が存在するということ自体、一山を見て、山脈を思うがごとく、仏の教えの多種多様さ、その深さ、不思議さに思いいたるのである。

6)(略)主義主張を立てるから立場が分かれてくるのである。それが規則となって人の心をしばるのである。たとえ信心のあり方に徹底したといっても、不変の真理にであったといってもたちまちよごれた意識が流れこんで、外見は静寂な心境に到っていても、内面の本心はいざというときに動揺して役に立たない。(中略)

 個人の歩みのあとかたにあやかろうと思うなら、どうぞ前仏古仏の先輩たちを観察してみていただきたい。大通智勝仏は仏の道を成就するほとりにまでいたりながら、さらに十劫もの長い時間、菩提樹下で内観したが、ついに本当の覚りを会得できなかったという。(略)p159「宝鏡三昧」三 仏性に信せる道(正宗分の二) 部分抜粋

 

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2018/03/07

「うちのお寺は曹洞宗」わが家の宗教を知るシリーズ 藤井 正雄<2>

<1>よりつづく

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「うちのお寺は曹洞宗」わが家の宗教を知るシリーズ <2>
藤井 正雄 1997/12 出版社: 双葉社 単行本: 237ページ
★★★★☆

1)うちのお寺は曹洞宗、と、簡単に言ってしまうことができない。身の回りを見ると、なぜか親戚のほとんどの菩提寺は曹洞宗だったりするから、なるほど、と思うのだが、わが家は違う。違う、と言っていいのだろうか。

2)母方の菩提寺は柳生寺で、秀麓齋で末寺である。曹洞宗の流れだ。しかし父方の普門寺は、もともとは総禅寺の末寺であったらしいが、第二次世界大戦後に離脱し、現在は単立寺院となっている。

3)経典や祭壇などは、宗派時代を踏襲しているようだが、僧侶としての姿が違う。決して色のついた袈裟を仰々しく羽織ることなく、背広ネクタイ姿の上に、簡略化された黄色などの礼布をかける。

4)そもそも道元は、自らの教えを曹洞宗などとは呼ばなかったそうで、そう呼ぶようになったのは末寺も増えて普及活動が活発化した4祖頃かららしい。同じく盛んになった他の宗派との区別をするためとのことだ。

5)葬式仏教と呼ばれたり、僧職にあるまじき行為が喧伝されたり、俗事にかかわりすぎる僧職が多くなったりすると、いつの時代も内部から改革運動がおこるものだが、戦争に関わりすぎた宗教界にも、戦後、そのような改革運動が起きたとされる。その一環として、普門寺も関わっていたに違いない。

6)これまでも、人生の中で、幾多の葬儀に参列してきたが、還暦もすぎるとわが友人たちをはじめとする葬儀の数も増えていく。さまざまな宗派があり、また同じ宗派であっても、それぞれの地域によって、多少ならず、さまざまな儀式の仕方がある。神道やキリスト教のしきたりなど、それぞれに神妙な心持ちとなり、故人の冥福を祈る。いずれもそれぞれに尊い。

7)以上の経緯から、道元の教えに乞うことが多いのだが、「うちのお寺は曹洞宗」とまでは断言できずとも、この一冊は、この宗派がどのような成り立ちをしているのかを、この一冊で概観することができる。

8)「わが家の宗派を知るシリーズ」として多宗派もあるようであり、縁を感ずるなら、それら他の宗派についても目を通してみる価値はありそうだ。

<3>につづく

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2018/03/05

「WRED(ワイヤード)VOL.30」 特集「Identity デジタル時代のダイヴァーシティ 〈わたし〉の未来」 <5>

<4>から続く

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「WIRED (ワイアード) VOL.30」 / 特集「Identity デジタル時代のダイヴァーシティ 〈わたし〉の未来」 <5>
コンデナスト・ジャパン   (著),‎    WIRED編集部 (編集) 2017/12 出版社: コンデナスト・ジャパン雑誌
★★★★★

1)虚心坦懐にまず読み始めて見るのだが、とにかく読みづらい。文字が小さすぎるのだ視力そのものは決して悪くないのだが、老眼鏡は必要だ。部屋を明るくし、良い姿勢をとっても、とにかく読みにくい。

2)なぜにこれだけ文字が小さいのだろう。雑誌全体としてイラストやビジュアルが多すぎるからではないか。図画が多いことは歓迎だが、本当にひとつひとつ必要なのか? もし、文章を本当に読ませようとするなら、図画を減らして、文章の文字を大きくすべきだ。

3)そもそも図画が中心で、文章はあまり読ませる気がないのなら、それらしく長々とした文章はやめたほうがいい。それぞれのキャプション程度に抑えておくべきではないか。

4)記事体と広告のラインもかなり低い。雑誌を発行し続けるには、広告料を柱にしなければならないことはわかるが、そのことによって雑誌全体がゆがめられてはならない。

5)アイディンティティはともかくとして、ダイヴァーシティ、という言葉使いはまだ一般的ではないし、交換不可能な単語とも思えない。先駆的な、流行の前取りという意味では、WIREDとしてはこの言葉を使いたかったのかもしれないが、ちょっと気取りすぎというか、的を外している。

6)売れ行き不振で休刊になっていく雑誌であるならば、なるほどそういう欠陥があれこれあるのは当然なのだ。そして、それを惜しませる、もうひとつの魅力があるかどうか。

7)結局、還暦越えのじさまが自分の雑誌として読むには、ちょっとミスマッチなのだな、とあらためて痛感。十牛図で言えば、尋牛から再び始めなければならないような、ちょっとしたシンドサを感じる。初心忘れるべからず、ではあるが。

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8)再読リストに挙がっていた一冊ではあったが、まぁ、今回をもって終止符を打とう。他に魅力的な雑誌がないわけではない。

9)ちょうど30号でキリがいいので、そのうち、この雑誌全体を再読して、全体のイメージをメモしておおくことにする。

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2018/03/04

「グーグルのマインドフルネス革命」―グーグル社員5万人の「10人に1人」が実践する最先端のプラクティス<2>

<1>からつづく 

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「グーグルのマインドフルネス革命」―グーグル社員5万人の「10人に1人」が実践する最先端のプラクティス<2>
サンガ編集部 2015/5/25  付録:マインドフルネス実践ガイドCD 単行本 243ページ ★★★☆☆

1)スティーヴン・マーフィ重松「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」(2016/06 講談社)を再読した機会に、こちらも手にとってみる。

2)「名前のない新聞」No.187にも書いておいたけれど、自分が意識に注意を払うようになった最初の記憶は8歳の頃。1962年。

3)最初の坐禅のような体験は、小学5年の時。1964年。担任の越前千恵子先生が、クラスの子どもたちに落ち着きを与えようと、私たちを床に座らせて、毎日「反省会」なるものを始めた。

4)中学生になって、高校生だった姉が定期購読していた雑誌「リーダーズ・ダイジェスト」の特集を活用して、リラクゼーションを自学自習していた。1966年頃。

5)高校生になってミニコミを作り始めた時、友人が見つけてきた路上販売のミニコミの瞑想特集で、アメリカのムーブメントを知った。1970年頃。

6)マインドフルネスはアメリカの西海岸、シリコンバレーの大企業などで多く取り入れられていますが、1960年代のヒッピーカルチャーをベースとした、カウンターカルチャー、ニューエイジ的なカルチャーとは無縁と言われています。p36「マインドフルネスとは何か?」

7)72年になって、高卒後コミューン活動を始めたのは、高山樗牛ゆかりの「瞑想の松」の側だった。旅をする時、「瞑想の松ビューロー」という名前を思いついた。「瞑想三昧社」などという名前も使った。18歳。

8)仏教の場合には、死の存在があります。ブッダをはじめ、日本では各宗派の宗祖である親鸞、道元などが師として重要な位置をしめしていますが、マインドフルネスにはそういった師の存在がありません。p102「マインドフルネスと仏教の相違点」

9)旅に疲れて、近くの禅寺「輪王寺」で坐禅を始めた。20歳。1974年。

10)アメリカでは、1960年代ごろから仏教が広まりました。(中略)ヒッピーカルチャー、人間性回復運動(ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント)等の隆盛を背景に、1960~70年代に禅ブームが起こりました。1980年代にはチベット仏教が流行し、さらにテーラワード仏教も広まっていったのです。p109「マインドフルネスが宗教性を排除した理由」

11)1975年「星の遊行群」ミルキーキャラバンの中でOSHO「存在の詩」に出会う。編集中のミニコミの廃刊、コミューンの終了を決意する。21歳

12)グーグルでも様々な宗教の世界から講師を招き、講演会を行っていますが、アメリカでもっとも有名な禅センターの一つである「サンフランシスコ禅センター」でも、テーラワーダ仏教、浄土真宗、真言宗、チベット仏教など、幅広い宗派から講師を招いて授業が行われ、多くの人が仏教を学んでいます。p110同女王

13)1977年、インドに渡り、OSHOのサニヤシンとなる。ゲシュタルト、タントラ、ビパサナ、などのグループセラピーを体験する。1977年 23歳。帰国後、OSHOスバガット瞑想センター開設。1979年。25歳

14)「日本では、マインドフルネスの考え方は決して新しいものではなく、昔からずっとありました、とテック・ナット・ハン師は語っています。p220 「日本のマインドフルネスの展望」

15)1982年、瞑想センターの仲間21人と、アメリカオレゴン州OSHOコミューン訪問。

16)マインドフルネスは、アメリカからいわば仏教文化の一部が輸入されるような形で、日本に浸透し始めています。しかし、日本にはもともと禅があり、茶道、華道、書道、武道が、文化の中に根を下ろしています。念仏、題目、真言などの修行も脈々と伝えられてきました。p220同上

17)電話心理相談。大学での心理学・哲学再学習。1986年~ 32歳

18)仏教が文化として根付いている日本において、宗教性のないマインドフルネスは今後、どのように発展していくのでしょうか。p220 同上

19)インドに戻ったOSHOの元に家族4人で長期滞在。OSHOカウンセラー・トレーニング。1977年 33歳。

20)外国文化を自国のものに消化して発展させていていくことが得意な日本人たちは、逆輸入されたマインドフルネスを受け入れながらも、アメリカとは異なる、日本独自の文化としてマインドフルネスを昇華させていくかもしれません。p221同上

21)1990年、OSHO肉体を離れる。瞑想センターを多目的的に法人化。1991年。翌年、公的資格として産業カウンセラー資格取得。

22)マインドフルネスを通して、仏教自体への興味・関心も、これまでより高まっていく可能性があるでしょう。p221同上

23)地域活動、教育活動、心理相談など、ボランティア活動に積極的に参加。1994年以降。

24)宗教の立場からマインドフルネスを実践されている人からは、ときどき、「先生は効果、効果というけれども、大切なのは効果じゃない。心だ」という語意見をいただくことがあります。p241越川房子「解説」

25)2005年以降。読書ブログスタート。

26)心だけだと、瞑想を実践する方が少なくて、実践する方が少ないと、マインドフルネスの本当の良さが広がらず、結局、ブームを超えて残ることができないと思うのですよね。p241越川 同上

26)3・11被災。56歳。

27)ブームというのは、すごく大きく膨らむと、その後、すっとしぼんでしまいます。しかし、瞑想のブームは、そういうものであってほしくないと思っています。実証研究をしっかりと行うことで、このブームのあとも長く、皆さんが実践していく素地をつくりたいと思っております。 p243 越川 同上

28)2018年。64歳。秀麓禅齋、みんなの寺小屋などに参禅。観光事業、復興支援、俳句、郷土史などの活動に参加。瞑想センター活動を改めてライフワークとして位置づけている。

29)マインドフルネスとは、人生を豊かにするのに役立つ心のあり方です。今、この瞬間をしっかりと感じていきると、豊かな時間を味わえますし、自分と他者が影響し合っていること、他者に対する慈しみが自分に対する慈しみとつながっていることを、深く感じることができます。

 マインドフルネスに生きること、瞬間瞬間を充実して生きるということは、とても大切なことだと思っています。p243 越川 同上

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「鈴木大拙コロンビア大学セミナー講義」<6>

<5>からつづく 

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「鈴木大拙コロンビア大学セミナー講義」 下巻
鈴木 大拙 (著),‎    重松 宗育 (その他),‎    常盤 義伸 (その他) 2017/11 出版社: オクターブ 単行本: 320ページ

1)我々が最高の覚りを得るとき、一心が現前する。一心が現前するとき主と客との分岐は存在しない。我々が主と客との世界をもつ限り世界の中で我々は、それらについて外に向かって話さなければならない。無意識の意識、意識の無意識の中の主と客が、我々のいる段階の特性を表す。

 しかし我々がまさしくこの一心に達するとき、すなわち絶対の覚りに到達するとき、我々はそれについて何も言うことはできない。それは無念の状態と呼ばれる。「無念」は非常に重要な、しかも理解することのきわめて困難な述語である。

 「念」は、意識の一単位である。意識は多くの念から構成される。仏教心理学の概念では、それは意識の最も短い波である。念の梵語「チッタ・クシャナ」は、意識を意味する心プラス時間の最短区分、「思考の一刹那」の意味である。p87「無念と覚り」

2)無念は、禅において非常によく使われる。たいていの人は、無念とは意識がすべて払いのけられたまったくの無意識状態だと考える。しかしこういう考えはまだ相対的な平面にあるもので、真の覚りが可能になる前に克服されるべきものである。p89同上

3)禅は、この世の外に出て行かない。ぜんはこの世で働く、しかしこの世の相対性に限定されることはない。禅は人々に、相対性の世界に生きていながら、その一部にならないようにと教える。

 この世にあることは、サマンタパドラの生き方に従うことを意味する。この世を超えることはマンジュシュリーが自己を主張することを意味する。166「覚り体験の特徴。対象に対する思いがない、絶望がない、足跡を残さない、境界がない」

4)禅には何か実際的なものがあることを我々は知っている。ある一つの客体が完全に主体と一体となるとき、客体と主体とは一つになり、この一体化からあることが起こるとき、ある経験が生じる。 

 主体と客体は完全に一つだが、それはただ普通の結合状態ないし一体化ではない---この状態から覚りが来て、すべてのものはその全体性において受け入れられる。p283 「禅は我々に個別の心から存在全体とおしての心、一切衆生心に進んでもらいたいと願う」

5)もしも自然が真空状態を嫌うとすれば、禅は言葉と観念とを嫌う。我々の心は不断い観念の動きに沿って働き、我々は観念が本当のものだと考える。ある程度まではその通りだが、しかし具体的な事物のようには客観的には存在しない。

 禅は、我々に個別の個人的な心の次元から、目覚めた存在全体としての心、一切衆生心に進んでもらいたいと願う。289p 同上

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「鈴木大拙コロンビア大学セミナー講義」<5>

<4>からつづく

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「鈴木大拙コロンビア大学セミナー講義」 上巻
鈴木大拙 (著),‎    重松宗育 (その他),‎    常盤義伸 (その他) 2017/11 出版社: オクターブ  単行本: 246ページ

1)当時のアメリカは、物質文明、機械文明のもたらした経済的繁栄を享受する一方で、チャップリンの「モダンタイムズ」に描かれたような多くの問題をはらんでいた。しかし、そんな矛盾に目を閉ざしてよしとする「フォーニー」な大人たちに対して、違和感を抱き反抗する若者たちが現れた。

 のちに日本で仏教伝道文化賞を受けたゲーリー・スナイダーをはじめとするビート世代や、さらに後につづく良質なヒッピーたちが、自然環境保護をめざすエコロジー運動など、カウンターカルチャーへの原動力となてゆく。ちなみにスナイダーの進路を決定づけた大拙の書との出会いは、この1951年のことだった。上P5「はじめに」

2)1951年。それからきっちり30年経過した1981年にOSHOはアメリカの地を踏んだ。大拙からOSHOへと直接にはつながらないものの、その存在の意味的なものはかなり等質なものがある。5年間の滞在のあと、1985年にアメリカをOSHOが離れたあと、すでに34年。時間の経過とは、このくらいの質感なのか。

3)仏陀→摩訶迦葉→菩提達磨の系譜も中国に至っても、決して即座に受け入れれたわけではない。達磨→慧可の弟子筋の六祖慧能に至ってようやく、禅宗としての姿が整っていったのである。

4)80歳を超えた晩年の大拙がニューヨークに腰を落ち着け、精力的に講義を続けた努力は限りなく尊い。大拙の生涯のなかでも、D・T・スズキの業績として重要な1950年代、ニューヨーク滞在時代の活動は、今後、さらに評価されるべきである。

 大拙のコロンビア大学セミナー講義からすでに半世紀以上が過ぎ、今や禅は世界中に広まっている。海外において、禅はすでにいろんな分野で応用され、各地で、独自の新しい「ゼン」の歩みが始まっている。

 日本にも、まるで逆輸入かのように、スティーブ・ジョブズの仕事、セラピー、マインドフルネスなど、禅の思想や方法論を取り入れたと思われる考え方や技術が、いくつくも海外から伝わってきている。

 しかしながら、重要なことは、海外での「ゼン」が、単なる技術としてではなく、智慧と慈悲に基づく本物の禅に育ってゆき、真の意味で根づくことにある。そのためにも「西欧ゼンの出発点」となった大拙のコロンビア大学セミナー講義の意義を、相応の経緯とともに再確認すべきであることは間違いない。p10同上

5)現在進行形の状態を認識することはなかなか難しい。ましてやこのような精神的運動を量的に、相対的に、客観的に評価、表現することはなかなか難しい。

<6>につづく

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「謎床: 思考が発酵する編集術」松岡正剛& ドミニク・チェン <2>

<1>からつづく

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「謎床: 思考が発酵する編集術」
松岡 正剛 (著),‎  ドミニク・チェン (著), 2017/07 晶文社 単行本: 358ページ
★★★★★

1)昨晩サラっと目を通し、今朝になって秀麓禅齋での日曜坐禅会にでかけ、帰宅後、午前中のまどろみの中で、再読した。思ったほど難解ではなく、簡単に頁をめくることができた。斜め読みした時と印象はほとんど同じだった。むしろ、もう再読しなくてもいいな、と思えた分だけ、今朝のほうが評価が下がった。

2)私がここ最近抱えていて、松岡さんとの対話でぶつけたいと考えていた問題意識を一つのフレーズに凝縮すれば、それは「日本とは何か」という短い問いになる。p5ドミニク「はじめに」

3)当ブログが敢えて「日本とは何か」を問うなら、敢えてセイゴオ親分を選んだりはしないだろう。この問いをドミニクが親分に問う、という図式が、この書と、二人を決定的に、固定化してしまっている。

4)天井が吹き抜けた倉庫のような空間に、松岡さんの蔵書が約二万冊配架されている本棚が壁面や柱に埋め込まれているこの接客空間は、あたかも異次元への入口さながらの空気を醸している。

 まるで映画「インターステラー」の終盤で主人公クーパーがブラックホールの中の特異点を超えて迷い込む四次元の超立方体のように、過去から現在に至る松岡さんの関心を滋養してきた無数の書物の毛かいを浴びているだけで、知の母胎のようなものと臍の緒で接続しているような感覚を覚える。p11ドミニク同上

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5)二万冊の本が、いつの間にか「無数」になってしまうのはお愛嬌だが、それに匹敵する容量があるかもしれないと自負し、他者にも自慢するのはドミニクのPCだ。どのように保存されているか、何が保存されているかはここで問わないとして、「知」を本棚に並べて「自慢」する時代は終わっていると思う。少なくとも私はドミニクのスタイルに軍配を上げる。

6)我が家にも確かに数千冊の蔵書があり、雑誌や資料、会報の類を加えれば、桁が一つ上がろうというものだが、やはりそれだけの空間性がないと、整理がつかなくなる。当ブログではすでに、この書が4161冊目で、たしかに親分の蔵書には及ばないが、活用の仕方、という意味では、なかなか使い勝手がよい。いつでも「取り出して」「自分なり」に活用できる。私は私流のこの秘伝「謎床」を大いに活用している。

7)マインドフルネスやウェルビーイングという言葉が流行していますが、それらは、たとえばスティーブ・ジョブズはじめ欧米の文化人たちが、鈴木大拙がかの地で展開した禅を継承していて、それが日本に逆輸入されてきたものですよね。

 現代の日本人は、マインドフルネスのほうをありがたがっていますが、オリジンは日本や中国やインドにあるわけです。もともとは自分たちが持っていたものがルーツにある。p115「日本型ポジティブ・コンピューティングをつくる--寄物陳思メソッド」

8)まぁ、その通りだが、決して「日本人」全部が「ありがたがって」いるわけじゃないよ。雑誌「大法輪」のマインドフルネス特集(2017/04)などを見ると、かなりの抵抗感があり、反論もされている。

9)私はあのSecond Lifeの失敗からすると、ゲームのほうがいいのだろうと思っています。松岡p139「ゲーム脳とは何か--嫁は二次元でいい?」

10)ははは、やはりSLの「失敗」は親分も認めているだね。「セコンドライフマガジン」創刊号(2007/12 インプレスR&D) における親分のインタビュー記事など、今となってはお笑いだが、この「編集工学屋」さんの言説には、その辺セールスマンの舌先三寸とそれほど変わらないのだ、とキモに銘じておく。眉唾。くわばらくわばら。あれ以前から常に、当ブログが親分に一定程度以上の距離を置いているのは、そのためだ。

11)IT業界でいえば、Googleが禅を取り入れたということが最先端の情報として入ってくる。あるいはマインドフルネスという語についてアメリカの医学界で用語定義され、よし今度はマインドフルネスを最大化するシステムをつくろうとおいう話になっていて、日本はかえってそこに後れを取っている感じがするんです。

 最初から身近にあるのに、欧米から流れてくることによって目新しく感じて取り入れようとしている。p153ドミニク

12)おそらく、ネイティブ・デジタルな方向にやや傾きつつある(例えば出版社サンガなど)集団性においては、そうかもしれないが、この傾向はずっと昔から続いている。別段に今始まったわけではなく、「グーグルのマインドフルネス革命」(2015/05サンガ編集部)などは、読む人が読めば、お恥ずかしい限りの一冊である。シリコンバレーなどの現地レポートとして読む分にはかまわないが。

13)次に来ると言われているカーツワイルのシンギュラリティは人間の心にどのような変化をもたらすのか。p198ドミニク「シンギュラリティは人間の『心』にどのような変化をもたらすのか」

14)ここは当ブログでもスタート時点からすでに10年間以上追いかけているテーマではあるが、結局この対談している二人にも明確な答えをだせるわけではない。結局ケヴィン・ケリーが「<インターネット>の次に来るもの」(2016/07 NHK出版)で言っているように、積極的に新技術と取り組んでいって、結果を待つしかないようである。

15)先日サンフランシスコ禅センターを訪問しました。(中略)そこで70歳近い指導者の女性に出会ったのです。(中略)殺菌、Googleを筆頭にシリコンバレーの企業の中では、マインドフルネスというコトがで瞑想が紹介され、奨励されているのですが、そうした流れについてどう思いますかと彼女に質問しました。

 すると彼女は「自分は現代の人たちが、そうしたものを、どのような形であれ求めているということについて、そのこと自体を判断しない」と言った。

 「ただ、企業がそうしたものを活用するというとき、そこでひとつ大きな履き違いをしている。彼らは瞑想を何かをアチーブするためのものだと思っているだろう。

 しかし、私が30年のあいだここで学んだことは、坐禅という経験を通して、何も追及しない、ただたゆたうということだ」とも付け加えたんですね。

 そして、坐禅にはどこかにゴールがあるわけではなく、とにかく続けるという動きの中でしか自分にとっての意味は生まれないし、それは他人に共有するストーリのようなものでもないと強く言われて、非常にはっとさせられました。p276ドミニク「なぜ、集団はアチーブメントを求めるようになるのか」

16)道元がいうことく、そもそも坐禅は安楽の法門であってみれば、そんなことは30歳代後半のドミニクと言え、知らないわけはないだろう。ただ、この切り取り方は上手である。

17)松岡 (前略)マインドフルネスなアプローチが、グローバルスターンダードをめざしてシンプルになっているというのはダメだろうと思います。マインドフルネスなものこそ、先ほどの粘菌類的な多様性を各フェーズごとに見せながら変化していくような、何かの複雑性を含む必要がある。 

 そもそもはそうしたものをいろいろと取り揃えていたはずなんです。それらをもういちど取り出してダイナミックに編集することで、多様な集団的意識や無意識を生み出していけますよ。でも宗教者たちだってあまりにも怠慢なのか、何もしていない。

ドミニク そのことは「空海の夢」にも書かれていましたね。というこおとは、それから30年のあいだには何も革手いないわけですね。

松岡 うーん、かえってひどくなっている。坊主まるもうけじゃいけません(笑)。p279 同上

18)松岡著「空海の海」がこの本の底本になっているわけだが、当ブログでは未読であり、また、今後読みこむ予定はない。それぞれの宗教家たちだって、何事もしていないわけじゃない。巨視的に見れば、ブッダの仏教が賞味期限をきたしているだけだ、と考えるとつじつまがあう。

19)ブロックチェーンの頑健性は、台帳のクローンが多数存在し、取引が行われるごとにそれらが一斉に書き換えられ、しかも書き換えには計算コストがかかるということに依拠しています。

 このシステムを使えば、公証制度かあ著作権や特許までもユニバーサルに、特定の国家のインフラを経由せずに構築できると考えることができます。p290「国家とネット」

20)最先端におられるべき才気あふれるお二方にとっても、けっして未来が明確に見えているわけでもなく、情報を独占しているわけでもない。この辺は同時代性を確認しておけば、それですむ。

21)私(松岡)がいまいちど考えたいを思うのは、実はこの図式の裏側にあるものがあるんです。それは何かというと、言語の裏側にあるのが「神」と「意識・無意識」、機械の裏側にあるのが「エロス」と「死」です。p293 松岡 「言語と機械--資本と市場が届かない場所」

22)こういう言説にぶち当たるにつけ、OSHOが面前で3年半の沈黙の時代を持ったということの凄さを再認識することになる。

23)この本は2017年夏に出版されたものだが、対談そのものは2016年後半から2017年前半に、三日間の日をとって行われたものとみられる。やや時間のズレがある。この対談の間、松岡は肺がんが見つかり、手術などを行っていたようだ。

24)この本、最初はかなりのネタ本になるかな、と期待したが、速読してみれば、わりと読みやすく、それほどの差異を感じない。これはこれでいいのだろう。近いうちの再再読は必要なさそうである。

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2018/03/03

「謎床: 思考が発酵する編集術」松岡正剛& ドミニク・チェン<1>

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「謎床: 思考が発酵する編集術」<1>
松岡 正剛 (著),‎  ドミニク・チェン (著), 2017/07 晶文社 単行本: 358ページ 
No.4161

1)いまや知の巨人とさえ評される松岡正剛オヤブンと、彗星のごとく登場したデジタル・ネイティブ的俊才ドミニク・チェン。どちらも、当ブログ注目のお二人だけに、この対談が面白くないわけがない。まずは手にとってパラパラと斜め読み。

2)セイゴオ親分については、これまで何回も揶揄的にメモしてきたので、当ブログと彼の千夜千冊的な世界観の差異は、ほぼ明確になっている。

3)しかし、ドミニクは、これからの急成長を望める人材だけに、いったいこの人どこまで伸びるんだ(伸びていってほしい)という好奇心で見つめることが多かった。

4)当ブログでは、パーソナル・コンピュータ、ソーシャル・ネットワーク、その次にくるべきコンシャス・シンギュラリティ(CS)という概念を視座に据えているので、そのCSに、この対談がどこまで迫って来るか、とても楽しみだ。

5)セイゴオ親分については、その編集工学というものの、もうすでに70年代に登場して以来、どこか硬直してしまっているものを感じるし、その商売センスゆえになせる技の俗性が、よくもわるくも、ある一定程度の距離を置かざるを得ない距離感というものがある。

6)ドミニク・チェンにしても、確かに新しいのだが、いつ失速するか、いつ保守化するか、いつ頓挫するか、と言ったマイナス要素からの好奇心がやや強くなりつつある最近であった。

7)つまり、最終的には、この二人では、当ブログはブレークスルーできないだろう、という読みが、正直今でもある。

8)謎床。なるほど、うまいタイトルである。二人の対談の結果、最終的にこのようなタイトルになっていったのは、よく理解できる。ドミニクは、他の著書でも、ITの次はバイオだ、というようなことを口走っており、漬物などについても言及していたことがあった。

9)この言葉のセンスは、セイゴオ親分にしても受け入れやすいであろうし、また、このお二人が接触しているがゆえに生まれたタイトルであるともいえる。「思考が発行する編集術」。まぁ、妥協の産物だろうが、当ブログとしては、このセンスは積極的に引き受けるものではない。

10)パラパラめくった限りにおいては、あちこち興味深い行が散見される。「シンギュラリティを迎える前にやっておくべき、いくつかのこと」なんてところは、まぁ、商売人のお二人の腕の見せどころであろう。

11)知識が問題なのでもなく、情報が問題なのでもなく、システムが、時代が、歴史が、そんなところが問題なのではないことは、最初から分かっている。要は人間なのだ。人間そのものなのだ。人間の意識。私という意識、私そのものが問題なのである。

12)だから、夜店の屋台のごとくキラキラと並べられたテーマひとつひとつに、謎めいた魅力があるだろうが、その全部を自宅に持ち帰る必要はない。私という意識にたどり着くべき材料が、一つでも見つかれば、それでいいのだ。

13)他の部分は、無駄になる可能性も十分ある。

14)「私」という漬物を「謎床」で発酵させて、だから、何?

<2>につづく

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2018/03/01

「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」スティーヴン・マーフィ重松<4>

<3>からつづく  

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「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」 <4>
スティーヴン・マーフィ重松 (著),    坂井 純子 (翻訳) (2016/06講談社 単行本: 322ページ

1)この本を手にとってから1年が経過した。だいぶブランクがあるが、この本はどうかな、と再び手にとってパラパラと目を通してみた。相変わらず良い本だと思う。少なくとも現在のマインドフルネスを学ぼうとするなら、カバット・ジンなどより、こっちのほうがいいように思う。

2)それは、いわゆる現在当ブログが「マインドフルネス」という用語を使おうとする場合、基本的な要素をほぼすべて詰め込んであるからである。一部を抜き出したり、曲解したり、他のものにマインドフルネスというラベルを張ったりするものも見かけるが、そのようなだましやあやまちが、この本には少ないように思う。

3)逆に、マインドフルネスでないもの、例えば、瞑想とか、禅とか、仏教とか、セラピーとか、エンライテンメントとか、あるいはOSHOなどを学ぼうとするなら、もっと適した本は存在する。それらの道を選ぶとするならば、必ずしもこの本を読まなければならない、ということはない。

4)されど、人間が人間界で生きていく限り、現代を理解しようとするなら、このマインドフルネス本を避けて通るのは、もったいないと思う。もし私が瞑想会を指導して、カウンセリングを行って、互いの心を接していこうとするなら、ふたりのあいだにこの本を挟んで、あれこれやったら楽しかろうな、と思う。

5)ひとつの用語で、さまざまな世界が語られており、人と人の心は、意外と離れていることが多いのだ。互いのボキャブラリーや体験をチューニングしあう手間は結構時間がかかる。

6)そういうことを考えると、例えば、この本を読んでいる人となら、割りとはやく打ち解けることができると思う。にこやかに話せる、というだけでなく、深く、互いの心理に入っていけそうに思う。もし、私と友達になりたいなぁ、と思う人が万が一いるなら、その人にはこの本がお勧めです。そして感想を聞かせてほしい。

7)その人の感想を聞きながら、私ならきっとその話題の部分をもう一度読み直すだろう。そして、互いの想いをもう一度確認しあうだろう。

8)この本を読み下す人なら、おそらくその人はクライエントより、カウンセラー、セラピスト、マインドフルネス指導者の資質により近い人だろう。そういう人が、具体的に、現在の社会の中の、自分の立ち位置で、どのようにこの本を生かしていくだろう、ということに、私は興味がある。

9)さて、それはそれとして、当ブログにおいてはマインドフルネスより、瞑想という用語のほうがより重要性を持っている。それに伴って、私は私なり、もっとOSHOの「読み」方に工夫が生じているなぁ、と感じている。

つづく

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「一流の老人」山﨑 武也 (著)

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「一流の老人」
山﨑 武也 (著) 2018/01 出版社: 幻冬舎 単行本: 229ページ 
No.4160★★★☆☆

1)昨日、小中学校の同級生の葬儀に参列してきた。同級生同士でのカップルだっただけに、もっと同級生が参列しているかな、と思ったが、私が判別できたのは100人の中の数人。その友人たちの顔も、正直言って、しわだらけだったり、白髪だったり、後ろ姿がやや曲がっていたりで、う~~ん、老人だなぁ、と思った。

2)会葬御礼のハガキを見て、びっくり。享年が書いてある。え~、そんな年齢になっていたの? って、同級生ゆえ、自分だって、その年齢なのだ。立派な老人じゃないか!

3)立派な老人、とはどういうことなのだろう。派を立てたわけだから、派閥の長みたいな人生を意味しているのだろうか。それとも、自分はまだ老人とは思っていないのに、すでにキチンとした老人の範疇に嵌っていた、ということなのだろうか。多分後者だろう。

4)「立派な老人」と「一流の老人」は、どのように違うのだろう。立派な老人、という場合、老人という言葉には、多少のマイナス要素を引きずっているように思われる。老人にはなりたくない、老人とは認めたくない、老人とは言わせない。そんなボーダーラインがあるようなのだ。

5)では、一流の老人とはなんだろう。二流、三流の老人、なんているんだろうか。老人という場合、ここでは、なにか老人の中にプラス要素を見つけているようだ。そのプラス要素を徹底的に磨いた人を、一流の老人というに違いない。きっとそうだろう。

6)この立派と一流の対比において、例えば、立派な病人VS一流の病人、なんて図式が成立するかもしれない。立派なひきこもりVS一流のひきこもり、なんてのはどうだろう。りっぱな泥棒(行為)VS一流の泥棒、なんてのはどうだろう。

7)こうしてみると、老人という言葉には、それほど大きな付加価値はなさそうだ。だが、そもそもピカピカの言葉ではなくて、やや常にマイナス要素を含んでいるようである。それをどう認知し、あるいは磨いていくのか。

8)一流の老人、と言った場合、当ブログでは、いわゆる「レムリアの古老」を思い出す。こここそが、当ブログの理想形である。はてさて、レムリアの古老VS一流の老人、という図式は成立するだろうか。

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9)読み終わって見れば、特段にめずらしいことが書いてあるわけではない。1935年に広島で生まれた東大卒の、元ビジネスコンサルタントが、平均寿命より(ということは80代なかば)長寿となって、何事かを書かれている、ということである

10)それを一流というかどうかわからないが、多数ある著書の中には「一流の条件」や「一流のマナー 二流のルール 三流の不作法」というタイトルの本もあるので、この人のキャッチフレーズが「一流」なのかもしれない。

11)かと言って、この本だからこそ知り得た、というものはほとんどない。むしろスギ様のあの歌のほうが勝っているのではないか、と、二流OK、三流満足の当ブログとしては、ひとり思うのである。

12)考えてみれば、いつの間にか当ブログもこの手の本を手に取ることが多くなった。これまでも類書をずいぶん書き込んできたのではないだろうか。そのうち、見直して、一覧リストでも作ってみようかな。

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「心理カウンセラーが教える 本当の自分に目覚める体癖論」小高 千枝

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「心理カウンセラーが教える 本当の自分に目覚める体癖論」
小高 千枝 (著)  2017/12 主婦と生活社 単行本(ソフトカバー): 159ページ
No.4159★★★★☆

1)新刊書リストの中の「心理カウンセラー」のワードが光っていた一冊。「この世を身軽に生き抜くために---」というサブタイトルも、ちょっと長いが、いかにも主婦と生活社らしい本ではある。表紙のパートカラーががピンクというのも、ふむふむ、と思わせる。

2)著者は、元保母さんで、離婚歴もあるらしき、メンタルトレーナー。詳しい資格等は明記されていないが、まぁそれなりに活動してきた方らしい。「体癖」とはあまり聞かない言葉使いだが、野口晴哉の言葉使いらしい。なくて七癖、って奴の発展形か。

3)巻頭、まずはこの野口理論に基づいたテストが行われる。それぞれ10個の質問に答えて、その点数から、治験者を10のパターンに分ける。10種、それぞれ微妙に異なる点数が出るが、私の場合は、一つは突出、一つは埋没、あとは白黒微妙。

4)私の場合は、「スピード感があり、賢く判断できるリーダー」がまず一番先に来て、二番目は、「ミステリアスな魅力が人を引きつける」タイプ」とか。若き女性を対象としたテストにつき、ちょっとはズレているだろうが、まずまず、そういわれてしまえば、そうなのかなぁ、と思ってしまう範囲。

5)もっとも外れていたのは「包容力たっぷり、愛情たっぷり、お母さん」タイプ。う~ん、これは違うだろうな。

6)次なるテストは、「エニヤグラム」から創り出したもの。こちらでの私はNP。「思いやりや共感性が高く、面倒見がいい」、のだとか。あれまぁ、野口理論とは、やや正反対の結果がでていますね。

7)もっとも違うだろうというタイプは、AC。「協調性や忍耐力、礼儀正しさもある優等生タイプ」、だとか。う~ん、これもなんだかなぁ。そういわれて続ければそう思ってしまうかもしれないが、まぁまぁ、性格判断なんてこんなもんだろう。

8)この程度の検査結果なら、私の西洋占星術のほうが、もっと信ぴょう性があり、治験者のハートを射抜くことができる。あまりこのようにタイプにはめてしまうことはよくないな。もっとフレキシブルで、自由な発想で、面白み、神秘性があったほうがいいように思う。

9)いずれにせよ、若き女性カウンセラーとしては、これらのグッヅを親近感を持たせながら、本題に入っていくのも、悪くないかもね。いくつかのカウンセリング例がでている。

10)最後には「マインドフルネス編」自分でココロをコントロールする方法、ときた。今、はやりそうな本を狙っている本だね。

11)いかにも主婦と生活社らしき、お手軽な本である。悪げはないだろうが、一般的に言って、この一冊で納得してしまう人などいない。この一冊で「本当の自分に目覚める」人がいたら、幸いである。普通はそうならない。

12)この本は、本の序の口のガイド本だ。高校生、場合によっては中学生にとっても面白かろう。今時の小学生なら、ひょっとすると読み切ってしまう児童もでてくるかもしれない。自分というのは、いつも不思議で興味がつきないものだ。その感性は一生つづくのだ。

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「把不住述懐」<24>祈りの場所をつくる

<23>からつづく

把不住述懐<24>祈りの場所をつくる

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<2>からつづく

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「コンフォルト」 2018年2月号 特集:祈りの場所をつくる<3>
出版社: 建築資料研究社 2018/01  雑誌 梱包サイズ:  30 x 23.5 x 1 cm 隔月刊版
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<4>につづく
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1)「祈りの場所をつくる」という場合、まずは「祈り」、「場所」、「つくる」の三つのパートに分割できる。

2)まず「祈り」。祈る、祈願する、願をかける、など、さまざまな云い方があるが、そもそも祈りというものは、単にエネルギーの動きであって、何かを頼んだりするものではない、というのがOSHO流だ。

3)つまり、当ブログとしては祈りは「瞑想」と言い換えておくことにする。瞑想は、本来、到達地点なのであって、そこから何かを期待すべきものではない。瞑想が目的地点なのだ。

4)次、「場所」とは何か。ゲーリー・スナイダー張りに「バイオ・リージョン」とするなら、地域の中にある自分の立ち位置、あるいは瞑想にとって、どのようなロケーションが最適なのか、ということが問題になる。

5)そもそも、Very Body the Buddha , Very Place the Paradise, 誰もがブッダであり、どこでも浄土である、というテーゼに従うなら、祈り=瞑想の場所を選ぶなんてことは、そもそも間違っている、ということになる。

6)さはさなれど、清潔で、清浄で、静かで、ゆったりリラックスできるスペースなり空間が適している、ということにはなるだろう。

7)さて、「つくる」。つくる、ということは、どういうことなのだろう。積極的に、自らが行動をとる。瞑想そのものをではなく、空間やスペースをつくる、ということ。

8)つくる、ということを作務と捉えることができるなら、つくること自体は瞑想である、とすることができる。

9)つまり、まずは瞑想があるべきであり、瞑想のプロセスのなかで、創造性が湧いてきて、次第に空間なりスペースが湧き出て来る、ということであるはずなのである。

新ブログ「把不住述懐」につづく

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