カテゴリー「42)クラウドソーシング」の108件の記事

2010/02/03

中国行きのスロウ・ボート

中国行きのスロウ・ボート
「中国行きのスロウ・ボート」 
村上 春樹 1983/05  中央公論新社 単行本: 238p:
Vol.2 954★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 これだけ村上春樹本を追いかけていても、必ずしもこの「中国行きのスロウ・ボート」のタイトルが派手にでてくる場面は多くない。むしろ、他の長編やらファン感謝デーのようなポップな本が目立ちすぎ、実際にここまで話題が及ぶということはあまりないのだ。なにかのリストで出て来る程度で、気にはなっていたが、あとはジグソウ・パズルの、残りの空間を埋めるような段階になって、ようやく気がついた一冊と言える。

 しかし、この本は、そんな穴埋めの一冊ではない。村上春樹としての短編集としては、もっとも最初に出されたものだ。1980~82年の間に書かれた短編が7つ収録されている。文庫本もでているようだが、私は初版本にこだわったため、地域の公立図書館の「閉架書庫」から出してもらって手にとることになった。

 初版は83年5月だが、公立図書館にあったものは89年10月発行の25版だった。村上春樹が一般の読者に認識されたのはどの時期であるのか異論のあるところだろうが、トップグループに飛び出たのは、1987年9月の「ノルウェイの森」が出たあたりだったのではないだろうか、と関連リストを眺めながら思う。

 最初はあまり注目されることのなかった短編集であるが、「ノルウェイの森」のヒットにより、作家の過去の作品を読みたくなった読者のひとりが、89年になって図書館にリクエストしたのではないか。それまで図書館でもノーマークな一冊だったのではないか、などと、勝手に想像してみる。確証はなにもない。ただの想像だ。

 正直なところ、ぼくはリナックスという名前で公開したいなどとは思っていなかった。それじゃぁ、あんまり自己中心的すぎる。ぼくが考えていた名前は、フリークス(freax)だった(わかるかな? フリークに、欠かすことのできないxをつけたわけ)。実際、初期のメーク・ファイル(ソースをコンパイルする方法を説明したファイル)には、半年ほどフリークスという言葉が残っていた。でも、それはどうでもいい。あのころはまだ公開前で、名前なんか必要なかったのだ。リーナス・トーバルズ「それがぼくには楽しかったから」p138

 「中国行きのスロウ・ボート」25版がでた頃、フィンランドのオタク学生だったリーナス・トーバルズは、91年に公開されるOS「リナックス」にむけて、盛んにカーネルをつくっていた。のちにフリーソフトウェアの代表となり、オープンソースな流れを作った源流と言える。さらには現在のクラウドソーシングと言われるものの原型を決定づけた最初の動きが始まっていたのだ。

 もし、クラウドソーシングとしての「ハルキワールド」という見立てに、多少の妥当性があるとすれば、まさに村上春樹は、この「中国行きのスロウボート」あたりで、盛んにコツコツと、一人で、カーネル作りに励んでいたのである。

 小説読みではない私には、この短編集を、内田樹の本のようにレインボーカラーで評価することはできない。せいぜい★3つか4つだ。内田は、ちょっとヒネていて、どこか吉本芸人のインテリ版のような痛快な笑いがある。このユーモアとウィット(といえるかどうか)には、私は、両手を叩いて大笑いする。おひねりをポンと投げたくなる。

 しかし、村上春樹のカーネルづくりには派手さはない。静かに静かに、確実に何かが始まっている音がする。

 詩人は21で死ぬし、革命家とロックンローラーは24で死ぬ。それさえ過ぎちまえば、当分はなんとかうまくやっていけるだろう、というのが我々の大方の予測だった。
 伝説の不吉なカーブも通り過ぎたし、照明の暗いじめじめしたトンネルもくぐり抜けた。あとはまっすぐな6車線道路を(さして気は進まぬにしても)目的地に向けてひた走ればいいわけだ。
 我々は髪を切り、毎朝髭を剃った。我々はもう詩人でもロックンローラーでもないのだ。酔っ払て電話ボックスの中で寝たり、地下鉄の車内でさくらんぼを一袋食べたり、朝の4時にドアーズのLPを大音量で聞いたりすることもやめた。つきあいで生命保険にも入ったし、ホテルのバーで酒を飲むようにものなったし、歯医者の領収証をとっておいて医療控除の受けるようにもなった。
 なにしろ、もう28だものな・・・・。
p81「ニューヨーク炭鉱の悲劇」

 いみじくも、この本がでた1983年、私も28歳だった。結婚し、子供が生まれた。村上春樹本人はもっと年上だったから、このように28歳を描写したけど、28歳の私なら、こんな描写はうっとうしくてたまらない。そんな、見透かしたようなことは言わないでくれ。いいから、ほおっておいてくれないか。当時の私がこの短編を読んだら、きっとそう言ったに違いない。だから、私は村上春樹を読まなかった。

 この本で「クラウドソーシング」カテゴリは108に達した。★は3つしか出さないが、まさにこのカテゴリの108番目においておくにふさわしい一冊と思える。ひとつのカーネルの完成がここにある。そして、新たなるクラウドソーシングをもとめる、新たなる旅へとつづく。

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2010/02/02

村上春樹にご用心 <4>

<3>よりつづく


「村上春樹にご用心」 <4>
内田樹 2007/09 アルテスパブリッシング 単行本 253p
  

 当ブログの<1.0>はこの本で完了した。あのときは、図書館から借りてきた本を山積みにしておいて、最後の最後、タロットカードを引くように、えいやぁ、と目を伏せて抜き取ったのだった。その本がこの本である。村上春樹は、いずれ読んでみようとは思っていたが、あのときは、あんまり気が進まなかった。

 あれから10か月。このわずか1カ月の間であったとはいうものの、まさかこんなに集中して村上春樹を追っかけることになるとは思っていなかった。終わってみれば(実はまだ終わっていない)、なるほど、面白い、と思う。もっと早く気がつけばよかった、と思うかと思ったが、実はそうでもない。まぁ、当ブログにとっては、これがグッドタイミングだったのだろう。

 カテゴリ「クラウドソーシング」はもともと「クラウド・コンピューティング」が最初のネーミングだった。コンピュータやIT、ネット関連の新刊本を無作為に読んで放り込んでおこうと思っていたものだ。だが、途中で、当ブログにおける「科学」とは、インターネット関連のことではなくて、「意識」に対する「科学的」アプローチ、つまり、「心理学」だ、と意趣変えをした。そこで、カテゴリ名を変えることになり、「共」的ニュアンスもあった「クラウドソーシング」に名前を変更した。

 その「クラウドソーシング」もこの書き込みで107に到達した。本当は、この「村上春樹にご用心!」を108目にもってきて、このカテゴリを封印しようと思ったのだが、なかなか107番目のいい本が来なかった。リクエストしている面白そうな本は何冊かあるのだが、昨日は月曜日で図書館が休みだった。そこで、あえてこの本を再読した、ということである。

 「こっち」と「あっち」の「あわい」でどうふるまうのが適切なのか、ということを正しく主題化する人は本当に少ない。
 村上春樹は(エマニュエル・レヴィナスとともに)その数少ない一人である。
p25

 村上春樹ワールドは「『父』のいない世界で、『子ども』たちはどうやって生きるのか?」という問いをめぐる物語・・・・・(後略) p42

 私たちにわかったのは、村上春樹がたとえば「全共闘への決別や「80年代のシティライフへの空虚さ」のようなローカルなモチーフを専門とするローカルな作家ではなかったということである。間違いなく、村上春樹はデビュー当時の批評家たちの想像の射程を超えた「世界文学」をその処女作のときからめざしていた。p181

 どうして村上春樹はこれほど世界的な支持を獲得しえたのか?
 それは彼の小説に「激しく欠けていた」ものが単に80~90年代の日本というローカルな場に固有の欠如だったのではなく、はるか広汎な私たちの生きている世界全体に欠けていたものだったからである。
p183

 この本の前半は、著者自身が翻訳を手掛けているせいもあり、村上の長編や短編、エッセイというよりは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」などの翻訳ものに脚光を浴びせている。ようやくハルキワールドから次第に離陸して行こうと思っていた当ブログではあるが、う~む、まだ「翻訳物」という、もうひとつの「山」があったか、と、溜め息がでた。

 しかし考えてみれば、面白そうな領域が増えたわけだから、今後、また別な展開の中で、それらの村上が翻訳した作品群を味わうのもいいだろうと思った。内田樹独特の語り口による論評は、かなり面白い。そして、読み方も実にユニークだ。なるほど、と思う部分があちこちにある。

 さて、この本が「クラウドソーシング」の108番目になるか、あるいは、もっと108番目にふさわしい本がくるかは今のところ不明だが、今後、村上春樹本は、「地球人として生きる」の中で読んでいくことにする。次に読む本が、この内田本を超えていなければ、この本を108番目にして、そちらを107番目に滑り込ませることにする。 

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村上春樹と物語の条件

村上春樹と物語の条件
「村上春樹と物語の条件」 『ノルウェイの森』から『ねじまき鳥クロニクル』へ
鈴木智之 2009/08 青弓社 単行本 348p
Vol.2 953★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 この本は今回の村上春樹追っかけのリストの中でも、もっとも最新刊に属する一冊である。もちろん「1Q84」が出版されたあとに出されているし、「あとがき」などにもその作品名が登場することから、著者は当然それを読んだうえでこの本を書いているのは間違いない。にもかかわらず、数ある村上作品のなかから「ノルウェイの森」「ねじまき鳥~」に絞り込んで、その論旨を展開しているのは何故だろう。

 「ノルウェイの森」はそれなりに読みこんだし、マイベスト3の中にも入る一冊だと評価している。「ねじまき鳥~」も一応は読んだが、第3巻において、時代背景やその設定に違和感を感じたまま、要再読として放置してままだ。

 こちらの鈴木本を読み始めるにあたって、後半のテーマが「ねじまき鳥~」であってみれば、もう一度、第3巻を再読したあとに読もうかなとも思ったが、かなわなかった。再読するまでのインターバルがうまく取れないまま、この鈴木本を読んだことになる。結果としては、それでよかったのではないか、と思う。というのは、この鈴木本も、要再読であるからである。今後、なんどか交互に読まれ、リンクされ、解題されていく必要がある。

 2009年になってから、1987年、あるいは1995年に出版された小説を読みなおすことなど、どうも時期外れなことではないか、と思った。とくにこの1カ月ほど、ようやく村上春樹を読もうと思い立って、集中して追っかけている当ブログのような存在は、ちょっとアナクロな、ときには滑稽な旅をしているのではないか、と思ってしまうのである。

 ところが、この鈴木本のように、敢然として、毅然として、これらの作品に取り組んでいる姿勢には、こちらもまた背筋が伸びるような、心地よい影響を受けることになる。いいや、必ずしもアナクロでもないし、無益でもない。人間としての営為として、あり得る姿だ。これでいいのだ、と思わされる。

 小さなことだが、この本で盛んに引用されている村上本人の小説の文章は、初版本よりは文庫本からの引用が多い。これは、他の解説本もそうなのかもしれないが、要は、議論を前提として引用する場合、読者もまた同じテキストを使用する可能性があり、その便宜をはかる意味でも、文庫本のページまで書かれているのだろうと推測した。

 さて、一読者としての私は、文庫本で読むことと、初版の単行本で読むことでは、かなり感覚的な違いがある。文庫本は、輝きはあるものの、どこか荒々しいものが抜かれ、なにか苦味のようなものが失われているように感じる。

 小説(文学作品)は、そもそも文章における芸術なのだから、その文字さえ同じであれば、その意は達成されていると思うのだが、どうも違う。決定的に違うものを感じる。たとえば、村上春樹をネット上の文字としてパソコンのディスプレイ上で見ることを考えてみる。それはそれとして、いつかは、その在り方がベストにならないとは言えないが、すくなくとも、初版本や文庫本とも違う、まったく別な読み方となるのではないか。

 逆に言うと、当ブログのように、最初からディスプレイ上の文字である、という規定の中で書かれていく文章とは、いったい何であろうか、と自らに問うてみる。文字として残されるものとは一体なになのか、というところで、たとえば小説を書く、ということとブログを残すということはどう違うのか、を考えた。

 当ブログにおける村上春樹は「クラウドソーシング」カテゴリの中で語られてきたが、まもなく「地球人として生きる」カテゴリへと移行される。その視座の変化の中で、新たに何がどう問われて行けばいいのだろうか。

 ここでまず確認されるべきことは、二つの作品がいずれも、「生存」の物語を語っているということ、より正確にいえば、「生存の様式」の獲得を掛け金として物語を起動させているということである。私たちが一個の存在として「生き延びる」ための条件が脆弱なものとして認識され、これを乗り越えようとする物語が提示されている。p339

 生きる、ということは、生き延びる、ということである、ということをまず再認識しておく必要がある。

 アガンペンは、この「人間であること」のあとを「生き残されている」人間の範列を、アウシュビッツで「回教徒」と呼ばれた人々に見ている。「人間」と「非-人間」とを区分する境界が失効してしまった状態を生きている者。したがってまた、本当の意味ではもはや「生きている者」とは呼べない人間。生きている人間と完全な死体の中間状態を、うろうろと歩き回っているだけのの存在。「回教徒」とは、「そのせいが本当の生ではなくなった者」、あるいは「その死を死とは呼ぶことができなくなった者」を示す隠語である。この不分明な領域のなかで、人間を「生かしながら死ぬがままにしておく」ところに、権力---生政治---の本質が露出しているのだ。p220

 人間という言葉に対する地球人とはなにか。それは何を意味することになるのか。「地球人として生きる」とは、生き延びることであり、この21世紀の世界において、生きる屍ではないことを意味する。「地球人として生きる」場合、読まれることを意識しつつ書かれる小説をは何か、読まれることさえないかもしれないブログを書き続けるとは、一体どういうことか。

 その作品世界に踏み込んでみたとき、村上春樹もまた、「本当の生活」を拠り所としてそこから視線を上げていった作家だといえるのだろうか、これにはいささか留保が必要になるだろう。村上春樹はむしろ、「地べたにある」生活の手触りを失ってしまったところから書き始めた作家ではなかったか、と思われるからだ。p141

 「1Q84」によって触発された村上追っかけではあったが、その直後の解説本よりは、まったく「1Q84」抜きに展開される村上論もまた素晴らしい。決して時期遅れでもなく、むしろ、再考、再々考を重ねていくことができるのだという、よい見本であるように思う。作品自体がそれだけの深みがあるとともに、作品は読み手のセンスによって、いかようにも磨かれていくのだ、というケースを見た気がした。再読を要す。

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2010/02/01

アメリカ  村上春樹と江藤淳の帰還

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「アメリカ 」 村上春樹と江藤淳の帰還
坪内 祐三 2007/12 扶桑社 ハードカバー  225p
Vol.2 952★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 著者は1958年生れ、文芸評論家。07年に出版された本ではあるが、収録されているのは03~06年当時に雑誌等に書かれた8つ程の文章。「アメリカ」というタイトルが重く、江藤淳の名前もあるので、どこか社会学的で理が勝った一冊であろう、という思いが、最後の最後まで、この本に手が伸びなかった理由である。

 しかるに、一旦読み始めてみれば、60年代、あるいは戦前戦後からの歴史背景のなかで、村上春樹がどのような小説を書いてきたかを、自らの視座から書きとめているのであり、後半になって登場する江藤淳の評論活動と、きわどくリンクし損ねた村上春樹をリンクしなおして、戦後日本にのしかかる幻影としての「アメリカ」を問う、という形になっている。

 もちろん、そこでは、日本の論壇が中心に論じられているのであり、問われているのは、国家としての日本であり、文化としての日本人である。数日前、91歳で亡くなったサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を、村上春樹が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」として翻訳しなおしたことを捉えて、日本から見るアメリカと、アメリカで見るアメリカ、そしてアメリカで見る日本から、日本で見る日本へと、視点を変えながら、時代を問う。

 彼(村上)のアメリカ憧憬は、もはや逃避家の幻想ではなく、陳腐な現実となった。アメリカのショッピングモールで買物をし、ペーパーバックやロックンロールでしか知らなかった町にも行ってみた。思い描いていたものは、その魅力を失ってしまったことに気付いた。「ジム・モリソンはアメリカで聞くのと日本で聞くのでは大違いだ」と彼は言う。西洋は隠喩の神秘性を失ってうんざりするものになってしまった。p54

 1995年を契機に村上は日本に「帰還」するのだが、一方の江藤淳は62年にロックフェラー財団の招きでアメリカに留学し、63年に一時「帰還」した。

 江藤淳はアメリカに暮らし、そこで、日本を(幻の日本を)を発見した。
 それは皮肉なパラドックスを含んでいる。
 幻の日本、と書いたように、江藤淳は、アメリカで、一種の脱日本人化したからこそ、日本を発見したのである。
p162

 江藤淳は70年代の日本の文藝の選考委員となり、村上龍を批判し、田中康夫を強く支持p174した。

 話はいきなり変わるが、この一週間ほど、中国当局とGoogleの「検閲」をめぐる激突が表面化した。Googleは急拡大する中国市場にこのまま参入し続けたいが、「検閲」されつづけることに「理念」の破たんを感じている。一方の中国当局は、国家体制の上からも言論統制は絶対必要であるとしつつ、対外的に「自由」がない中国を、あまり明確にしたくない。

 当ブログの村上春樹追っかけは、まもなく終了する。最初「表現からアートへ」カテゴリで始まった一連の読書は、途中から「クラウドソーシング」へと雪崩込んできた。しかし、もともとこのカテゴリも「クラウド・コンピューティング」から途中で名前を変更したものだ。そして、ここでいったん追っかけを減速させるにしても、テーマそのものは少しづつ変質させながら、続けていきたい。

 残っているのは「私は誰か」と「地球人として生きる」の二つのカテゴリだ。どちらもあと2~30の空きしかないが、ここからは「地球人として生きる」カテゴリの中で、村上春樹を読んでいきたいと思う。日本の芥川賞や直木賞をこそ逃したもの、カフカ賞やエルサレム賞を受賞するなど海外での評価も高くなり、つぎなる賞も期待されている村上春樹である。

 しかし、賞取りプロジェクトはとりあえずとして、ここまで追っかけてきているクラウドソーシングとしての「ハルキワールド」は、本当にグローバルなポピュラリティをかち得ているのだろうか、という問題が残っている。日本の戦後文化論や、60年代以降の対抗文化としての文学論で語られるのであれば、どこまでも「地球人として生きる」というカテゴリにははまり切れないだろうと予想される。

 しかし、ここは「地球人として生きる」という視座から、もういちど「ハルキワールド」を問い直してみる必要はあるだろう。とりもなおさず「地球人」という概念の捉えなおしとともに、「生きる」という意味も考えなくてはならない。

 そもそも小説を書く、という行為は「生きる」ことになっているのか。あるいは一作家の「小説」を好き勝手に論じているだけで、それは「生きる」ことを意味しているのか。ちょっとバブリーな雰囲気を残しながら、バーチャルワールドの仮想世界のような世界が展開する一小説にうつつをぬかし、目の前にある戦争や環境問題や経済、あるいは政治に対する姿勢を明確にしないまま、「文学」にふけることは、「地球人として生きる」行為足りえているのか。

 そんな問題意識をさらに培養してくれそうなのが、この「アメリカ 村上春樹と江藤淳の帰還」である。 

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村上春樹の二元的世界

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「村上春樹の二元的世界」
横尾 和博 1992/07 鳥影社 単行本: 182p
Vol.2 951★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 探してみれば村上春樹研究やら解説やら評論は、無数にあって、それらを評論するだけで、また一冊の本ができそうな勢いだ。その中でもこの本は、多作な村上作品の中の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に絞って、その論を展開している、ちょっと珍しい(当ブログが読みこんできた中ではという意味で)一冊と言える。

 論旨はともかく、なんだか、とても懐かしく、どこか親しみが湧いてしまうのは、この人のもともと持っているキャラクターなのだろう。ネット上の某所によると、

>横尾和博さんは1950年生まれ。
>新宿高校全共闘から中央大学除籍。
>全建総連書記を経てドストエフスキー研究、文芸評論へ。
>元「月刊青島」編集長。
>
「村上春樹×90年代」「筒井康隆『断筆』の深層」などの著書アリ。

などという記述がある。精確度のほうは定かではない。当ブログでは「村上春樹×90年代 再生の根拠」なんて本も読んでみたし、それに先立つこと「村上春樹とドストエーフスキー」などという本もあり、こちらは現在図書館にリクエスト中。

 「カラマーゾフの兄弟」は最近ようやく新訳で読んだので、いっぱしのドストエーフスキーの会の会員のような気分になっているが、やはり長編小説はあまり得意ではない。ましてやロシア小説は特に。ただ、この横尾和博という人の本なら読んでもいいかな、と思うから、ちょっと不思議。

 自分なりのいま在る根拠が問えれば、本書の課題は達成されたことになるだろう。p13「序章」

 問題は立てられたが、それが解決しているかどうかは不明。だが、その問題の立て方自体がなんだか、いつかどこかで見たことのあるような、それこそデジャブをさそうような懐かしさを感じる。これはこの本が出版された当時かなり新しかったのだろうか。それとも、この人のもっているキャラなんだろうか。

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2010/01/31

MURAKAMI 龍と春樹の時代

MURAKAMI―龍と春樹の時代 (幻冬舎新書)
「MURAKAMI」 龍と春樹の時代 
清水 良典 2008/09 幻冬舎  新書: 276p
Vol.2 950★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 村上春樹追っかけも延々と際限のないものとなり、その迷宮にどこまでも遊ぶことは可能であろうが、当ブログの本来の目的はそこにない。個人作家としての村上春樹を追い、それを取り巻くエネルギーとして渦巻くクラウドソーシングとしての「ハルキワールド」もなんとなくイメージできてきた。しかし、そこからパラレルワールド「1Q95」への抜け道を探検し、さらなる「1QQ5」へと、突き抜けていくことこそ、当ブログの目下の路線である。

 清水良典の名前は、「文學界」 2009年08月号の「1Q84」特集や、「村上春樹『1Q84』をどう読むか」2009/07にも見える。1954年、奈良県生れの文芸評論家。他には「村上春樹はくせになる」2006/10 などがある。私もおなじ年の生れなので、時代体験としてはまったく同じ日本列島のなかで、似たような時系列を生きてきた、と言える。

 この二人を抜きにしては同時代の文学は語れない。二人の同時代の作家として、私たちは生きてきたのである。二人の作品は私たちの時代そのものなのだ。その二人の代表作を並べて読むことで、この30年の時代の流れを見つめなおしたい。私たちはどのような時代を生きてきて、今どのようなところにいるのかを考えたい。p3

 当ブログは、「同時代の文学」を語る目的で設定しているのではないので、とくにW村上がいなくてもとくに困ることはない。さらにいえば、この二人をなぞることによって、この30年を見つめなおすことにはならない。同じような意味では、たとえば中沢新一を読みなおすことで、この30年を考えることができるだろうし、あるいは、北山修を読みなおすことだって、大切なことになるだろう。ひいては、荒岱介を読みなおしてみることだって、大切なことになるだろう。

 まぁ、しかし、ここで意地悪なことを言っていてもしかたない。当ブログは、現在、村上春樹をおいかけているのである。カテゴリ「クラウドソーシング」もこの書き込みですでに103番目となる。各ブログの定量を108と決めて、一旦フリーズしてしまうのは、当ブログの作法なので、あと5冊ほどで、ふたたび、村上春樹おっかけは中断(終了となる可能性もある)したい。

 そういった意味ではなかなか興味深い一冊ではある。この二人の対談「ウォーク・ドント・ラン」がでたのは1981年のこと。それにさかのぼること、龍の「限りなく~」や春樹の「風の歌を聴け」がでたのは、たしかにすでに30年以上の前のこと。この二人の名前がどこかで語られ続けてきたのは確かなことだ。

 この本では、時代を三つに区切っている。76~85、86~95、96~05、とちょうど10年単位になっているが、85年と86年の間には特に大きな断絶はない。むしろ、95年と96年の断絶はとても大きいといえるだろう。本書では、ちょうどここに区切りをもってきてはいるが、当ブログが求めるような意味では、あまりその区切りを重要なことと見ていない。

 当ブログはどうしても、社会的な区切りのほうに目が行っており、本書のような「文学」の面から考えれば、そのショックはやんわりと受け止められている感じがする。このやんわり、というところが、当ブログとしては、いわゆる「文学」なるものに感じる距離感、ということになる。

 精神分析を文学作品に応用して、作中人物を分析する方法はよく行われるが、私はその方法自体にはほとんど興味がない。精神分析とは、すべて臨床医がめいめい作り上げた野心的な仮説にすぎない。さらにフロイト、ユング、クライン、ボス、ラカンなど、さまざまな学派が弟子たちの勢力に分かれて対立していて、どの分析が正しいかを客観的に判断することは不可能だし、そんな議論は無意味である。p125

 当ブログでは、村上春樹の前は、北山修を一つの表象とした「フロイト 精神分析」をおっかけていた。ましてや、最大のテーマは「ブッタ達の心理学」と決まりかけている当ブログにおいて、ここでの清水良典の腹立ちは理解できないでもないが、オール・オア・ナッシング的に、心理学全般をバッサリと切り捨てることはできない。

 「海辺のカフカ」から「アフターダーク」にかけて見られるように、村上春樹はメタファーを駆使した象徴的な作風をいよいよと深めつつある。神秘的な出来事や暗示的な言葉のネットワークによって構築された「SF(サイエンス・フィクション)」ならぬ「SF(スピリチュアル・フィクション)」といえばいいだろうか。一見現実に背を向けて瞑想的な内的世界に籠っているようだが、実はそれは混迷を深める時代で生きる道を見出そうとする彼ならではのアプローチなのだ。p274「あとがき」

 この文脈における意味においての「スピリチュアル」や「瞑想」という単語の使い方には、当ブログとしては、一言いっちゃもんをつけておきたくなる。しかし、それはやめておこう。文学は、文字であらわされた芸術であってみれば、本や文字における検証は比較的可能性を残しているが、「スピリチュアル」や「瞑想」は、本や文字では検証が不可能だし、「論争」にもあまり向かない。

 ただ、本当にここで清水良典がいうような形での方向性が、今後の村上春樹にでてくるのかどうかを見定めたい期待は持っている。つまり、コンテナとしての小説、コンテンツとしての「ハルキワールド」、そして、コンシャスネスとしての「1QQ5」(仮称)へと、飛翔する可能性はあるのだろうか。村上春樹は、私たちの時代の瞑想を深めるスピリチュアル・ノベル(フィクションという言葉はあまり好きではない)足りえるのかどうか、というところに、今後のテーマは移っていく。

 すでにまとめに入っている村上春樹追っかけではあるが、その意味では、この本は出版年も近年のことであり、おおいに何事かを意識させられた、リアリティ溢れる一冊だった。 

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意味がなければスイングはない

意味がなければスイングはない
「意味がなければスイングはない」 
村上春樹 2005/11 文藝春秋  単行本 289p
Vol.2 949★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 季刊音楽雑誌「ステレオサウンド」に2003/春~2005/夏まで連載された、毎回5~60枚程度の長い音楽評論がベースとなって、2005年に加筆訂正されて出版された本。時期的には「海辺のカフカ」のあと、「アフターダーク」とのほぼ同時に書きすすめられた音楽論であり、長編小説を書くためのバランスをとるために書かれた一冊と言ってもいいだろう。

 小説の展開ではトンデモハプンなストーリー展開が多い村上作品だが、このような評論ものになると、ごくごく当たり前の論理性の持ち主であることがわかる。イノセントアートの安西水丸とのカップリングである村上朝日堂シリーズともまた違った、もうひとつの村上春樹の側面と言える。

 フォルカー ミヒェルスの「ヘルマン・ヘッセと音楽」とこの本を比較してみたりするのも面白いかもしれない。あるいはジェイ・ルービンの「ハルキ・ムラカミと言葉の音楽」も、決して音楽論ではないが、村上作品の中に潜む音楽性について、つよく指摘している。

 さて、小説にも音楽にも、ほとんどなんの造作もない当ブログとしては、ただただページをパラパラとめくっているだけだが、後半になって、ようやく「スガシカオ」で手が停まった。

 「ポスト・オウム的」というと、いささか話がアブナくなってしまうこれど、そこにあるものはたしかに、1995年以降でなければうまく通じにくい、漠とした「カタストロフ憧憬」ではないか、という気がしないでもない。p211「スガシカオの柔らかなカオス」

 あるいは、もっとも最後尾に登場するウディー・ガスリーなども、気になってくる。

 ウディー・ガスリーという音楽家は見当はずれなドン・キホーテであったのか、それとも邪悪な巨龍に敢然と挑んだ高潔の騎士であったのか?p249「国民詩人としてのウディー・ガスリー」

 なんとか当ブログとの関連のありそうなところを見つけようとめくるスピードを落とす。

 要するに、音楽の目的が違うのである。ガスリーが、同じような簡易な言葉を用いて詩を書いた国民詩人ウォルト・ホイットマンの継承者と言われるのもそのためである。p256「国民詩人としてのウディー・ガスリー」

 このあたりは、かならずしも村上春樹の独自の音楽論ということではないし、本来であれば、スガシカオやウディー・ガスリーはもともとこのシリーズにはでてこない可能性が高かったのではないだろうか。それでも、やっぱりサービス精神旺盛な村上春樹は、私のような小説にも音楽にも疎い一般読者にもオマケとして加えてくれているのだろう。

 「ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ」p105、とか、「シューベルト『ピアノ・ソナタ第17番ニ長調』D850 ソフトな混沌の今日性」p55などというあたりも、本当はゆっくり読んでみたい。 

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夜のくもざる 村上春樹

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「夜のくもざる」村上朝日堂超短篇小説
村上 春樹 (著), 安西 水丸 (イラスト) 1995/06 平凡社 単行本: 237p
Vol.2 948★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 いつもは行かない大きな中央図書館で、年に一度の催しものがあったので、ウォーキングがてらに覗いてきた。ついでに小説コーナーにも言って「む」の棚をみたのだが、あまり村上春樹の本はなかった。となりの村上龍や室井なんとかなどはあるのに、へんだな、といろいろ頭のなかで思いをめぐらした。

 そうか、蔵書はたくさんあるけれど、リクエストが多いので、貸出される量が多いのだ。考えてみれば、私の自宅にも、ネットワークを通じて、この中央図書館から何冊もの村上春樹が来ている。ここに残っているわけがないのだ。

 でも、その数少ない村上春樹本の中で、なぜか、この「夜のくもざる」が2冊あった。出版当時よっぽど人気があって、多く入庫したために余っているのか、あるいは、ほとんど人気にがなくて、この本だけが、いつも棚の空欄を埋めているのか、私には判断つかない。

 この本は「短い短編」が集められている。まるで星新一のショートショートみたいなものだ。パーカー万年筆の広告などに使われたらしい。イラストはあのイノセントアートの安西水丸が担当している。担当している、というより、このイラストあっての、このショートショート、という組み合わせかもしれない。

 いずれにしても、最初から安西水丸がイラストをつけているが、この本が出版されるにあたって、安西水丸は、全部イラストを書きなおしたという。最初の広告のスペースにあうように描いたイラストでは、単行本には向かないと判断したらしい。

 この短編集には、どこかで読んだような短編がいくつも含まれている。当ブログは順不動で読んでいるので、にわかには指摘できないが、「象の消滅」に含まれていたものが何編かあったと思う。あちらには安西水丸のイラストはついていなかったが、イラストがないこの短編を読むのと、あるのを読むのは、どう違うだろう、と考えた。

 いみじくもこの本もまた95年の6月に発行されているが、内容から言っても、村上春樹の前期+後期のうち、正当な前期に属するものだ。

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レキシントンの幽霊

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「レキシントンの幽霊」
村上春樹 1996/11 文藝春秋 単行本: 235p
Vol.2 947★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 初出作品としての発表年代と、単行本としての出版年を考えれば、大きくわけた村上春樹の前期と後期のちょうど境目にあたる短編集と言っていいだろう。まさにパラレルワールド「1Q95」の上に、ドカンと座っているような一冊に思える。

 もともとの作品は1990~1996年に書かれ、「めくらやなぎ~」はもともとは1983年に書かれ、その後改定を経て、95年の夏に神戸と芦屋での朗読会用に書き換えられた、ということだから、まさに阪神淡路大震災後の状況を強く反映しているはずである。もちろん、かの麻原集団についても。

 ジャーナリズムなら、裏を取るとか、一次情報を重視するとか、精確を期すためにとるべき手法はさまざまあるが、小説や文学、という世界は、文字となって発表されたものを、読者として読むことが原点だから、まず読んでみなくてはならない。解説本や評論などをいくら読んでも、文学における「一時情報」や「裏を取った」というような精確なものにはならない。

 この短編集を読んでいて、なるほどさすがに面白い。まぁ、もっと言えば、村上春樹を知るためなら、村上春樹を読む、とこれしかない。評論や解説などは、なくたって構わないのだ。この短編集では「トニー滝谷」が一番ピンときた。

 作家の作品の場合、まず原稿用紙に書かれ、雑誌に収録され、単行本として出版され、文庫本として出る。そして改訂版がでたり、全集に納められたりする。その過程は当然のごとく作家本人の許可がなければできないわけだが、そのプロセスの中で、すこしづつ手が加えられ、装丁や文字組みも変えられていくことが往々にしてある。

 だから、本当に気になる作品ならそれらのバージョンを追っかけてみる価値はあるのだが、当ブログとしては、単行本として最初に出たバージョンが一番、作家の息遣いが聞こえてくるような気がする。

 逆に言うと、雑誌の連載は、毎号毎号おっかけなくてはならないし、それらがあとから全部順番に読めるとは限らない。作家も、連載が終わると、単行本化する前に、かなり加筆訂正してしまうことも多くある。もっとも、雑誌に掲載される前の、作家直筆の生原稿用紙などにこだわる向きもあり、原稿流出、なんてニュースが巷を駆け抜けることもある。

 この短編集「レキシントンの幽霊」も、そう言った意味では、さまざまな時間系列の中で、どのように変わっていったかを「調査」するには面白い一冊だろうが、当ブログのおっかけの範囲外のできごとである。

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2010/01/30

村上春樹、夏目漱石と出会う

村上春樹、夏目漱石と出会う
「村上春樹、夏目漱石と出会う」 日本のモダン・ポストモダン Murakami Haruki study books
半田淳子 2007/04 若草書房 全集・双書 278p
Vol.2 946★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 だいぶ前からこの本が手元にあるのだが、なかなか読書が進まない。次から次と、あとからやってくる別な本に抜かれ、ついに手元にいつまでも残っている。これではいけないと、思い立ったところで、「村上春樹『1Q84』を読み解く」の中の「村上春樹をもっと知るための7冊」の中の一冊としてランクインしているのを見て、よし、と決意した。

 本書は、夏目漱石と村上春樹の作品について、日本のモダンとポストモダンの連続性という視点から論じようとするものである。p3

 ただ、私は、夏目漱石と村上春樹が連続してようがどうが、あまり関心はないのである。そもそも夏目漱石をそれほど読んでいない。村上春樹が「80年代の夏目漱石」と呼ばれていたらしいことは知っていたが、だから、どうした、と、ちょっと開き直ってはいた。

 ここまで、村上春樹を読んできて、マイベスト3は、「羊をめぐる冒険」「ノルウェイの森」「海辺のカフカ」ということになり、まだ完結していない「1Q84」は、評価不能なまま放置している。「ねじまき鳥~」第3巻を再読しないことには、評価できない。短編は、まだ読んでいないものもある。

 しかし、それにしても、「羊をめぐる冒険」「ノルウェイの森」「海辺のカフカ」、にしても、どれをとっても、自分の心象を代弁してくれている、自分の時代の小説家、とはどうしても思えない。同じ時代に生きていた、「有名な小説家」という意味では、自分の時代の小説家であるが、むしろ、私は、この小説家について否定したいことのほうが多い。そもそも、文学、ってやつがどうも苦手で、本当の意味では信頼していない。

 考える。ドストエフスキーの時代には、小説(文学)というコンテナ自体がその存在価値があったのではないか。読者はそれ以外の選択肢はなかった。とにかく自分の生活から突出したものを求めようとすれば、小説というコンテナに頼る以外になかった。

 夏目漱石の時代になれば、そのコンテナをどのように使うか、という余裕がでてきた。夏目漱石は、多分、そのコンテンツを、このようにも使えるよ、という新しい多様性のほうへと導いた。そこに至って、村上春樹は、次なるステージ、コンシャスネスへと飛翔する可能性を期待されていることは間違いない。

 しかし、本当に、村上春樹は、コンシャスネスに向かって飛翔するだろうか。目下の当ブログの着目点は、ここが中心となる。時間軸としての村上全作品に軽く目を通しながら、その評価や評論という横軸にも目を配りながら、「1Q84」を交差点する空間の中で、次なるbook3が出るまで、迎撃態勢を作っておく。まぁ、それが当面の村上春樹対策ということになろう。

 

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