カテゴリー「48)意識とは何か」の108件の記事

2009/08/23

This Is It<2> & The Supreme Doctrine <2>

This Is It<1>よりつづく      
The Supreme Doctrine<1>よりつづく

This_is_it      Supreme_doctrine
「This Is It」 and Other Essays on Zen and Spiritual Experience<2>
著者Alan Watts 出版年1996, 初版1960  出版者 Rider 形態 xii, 140 p. ; 20 cm. 言語: 英語 出版地 London

「The Supreme Doctrine 」<2>
by Hubert Benoit (Author) October 1995 Publisher: Sussex Academic Press; Paperback: 234 pages Language: English 初版1955

 ネイティブ・リーダーならざる当ブログにとっては、日本語以外の文献は決して取り扱いやすいものではない。Oshoベーシックな英語ならなんとか読めても、ちょっと複雑な内容だと、最後まで読みとおすことはできなくなる。ましてや、辞書なしでざっと読んでしまおうとすると、その大略さえよくわからない、ということもある。

 内容がZenであれば、読みこなしてみたい、とは思うものの、どこかチグハグな感触を味わうことも多い。なぜか。いろいろ考えてみたのだが、禅に関する日本語文献と、Zenに関する英語文献には、根本的な、なにか決定的な違いがあるのではないか、と思うようになった。

 禅については、ほとんど初歩的な入門書であったとしても、日本的な文化や、東洋的な枠組みのなかで、常識化していることを基礎として、簡単な文脈で、結構高踏な内容が表現されていることが多くある。

 ところが英語文献においては、ある一定程度のインテリ層を読者像としてイメージしているのか、論理的な組み立てに多くの時間を費やしているわりには、あまり深いところまで論じられていないように思うのだ。

 ルールはあいまいなままに、とにかく近くの広場で、三角ベースの野球を楽しんでしまおうという流れがあるとしたら、もう一方には、やたらとルールブックをひっくり返しながら、延々とその調整に時間をかけているように見える、という流れがある。

 こと、禅やZenについては、この比較は、まさに東洋的であり、西洋的である、という各々の性格がよくでているように思う。西洋的Zen理解には、鈴木大拙などの業績が大きく影響しているので、まずは、彼のロジックなりアルゴリズムを日本語的に理解したうえで、英語的Zen理解を読みこんでいったほうがいいのかもしれない。

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 この「This Is It」にしても、「The Supreme Doctrine」にしても、邦訳されていない。英語版にしても、周囲の図書館には見当たらない。国の中央施設から借り出してようやく今回めくることができた。内容うんぬんよりも、これらの文献は、日本人的な関心からは大きく外れているように見える。あるいは、平均的な日本人的信条から考えれば、このような英語文献を喜んでいる日本人というものがいるとすれば、それは、すこしひねくれすぎている、と言えるのではないだろうか。

 20世紀の初めや中盤においては確かに異国情緒的なニュアンスを含みながらZenは愛されたかもしれないが、西洋的Buddhism理解は、Zenよりむしろチベット密教'(Tantra)のほうに大きく流れていっているようだ。それはどちらが正しい、という意味ではなく、単にモダニズムや流行に大きく影響を受けているだろう。Tantraとて、ある一定の時期が過ぎれば、次第にその熱は冷めてしまうに違いない。

 この二冊を同時にめくりながら、そんなことを考えていた。ただ指標としてのこれらの本の持っている存在意義は大きい。日本人が自らの精神性のために読むというというよりは、日本的あるいは東洋的精神性がどのように他の地域の人々に理解されているのか、という確認作業において意味があるように思う。21世紀的なグローバルな地球人スピリットが立ち現れるまで、さまざまな潮流が行きつ戻りつしている。

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2009/08/14

論理哲学論考

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「ウィトゲンシュタイン全集」(1) 論理哲学論考 
ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン 初版1975/04 大修館書店 全集・双書 411p 1993年発行第9版を読んだ
Vol.2 No753★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 巻頭の20頁ほどにあたる「序文」を1922年にバートランド・ラッセルが書いている。

 論理学の難問と一見論駁不可能な理論の欺瞞性とについて豊富な経験を持つ者の一人として、私は、単に誤りの点が見出せないというだけの理由だけからでは、当の理論の正しさを確信できないことを知っています。しかしどの点においても明らかな誤りを含んでいない論理学の理論を構成したということは、非常に困難で重要な仕事を達成したということです。p22「序文」バートランド・ラッセル

 「論理哲学論考」を1918年に書きあげていたウィトゲンシュタインは、このラッセルの序文が気に食わないために、序文なしで発行しようと自ら動いたが、成功しなかった。たしかに、このプログラムはバグがないから素晴らしい、と絶賛されているようで、そのプログラムがなんのために働くのかが、いまいち理解されていないようにも思う。

 まるでスピノザの「エチカ」を連想するような文頭に数字を配した「論理哲学論考」は、最初から、スピノザのスタイルを模したとさえ言われているのだから、当然の連想であろうか。一行一行、アルゴリズムを駆使して膨大なコンピュータ・プログラムを書きあげる現代の論理学的マイスター達の仕事ぶりを連想する。ウィトゲンシュタインが現代に生きていたら、絶対にコンピュータ・プログラミングに関心を持ったはずだと思う。

 私の努力が他の哲学者のそれとどの程度一致しているかを、私は判断するつもりはない。勿論、この書物に私が記したことは個々の点では新しさを主張しうるものではない。それに、私が考えたことを以前考えた人がいるか否かは、私にはどちらでもよいことなので、私は拠り所を陳述しないのである。p26 「序文」ウィトゲンシュタイン

 1889年生まれのウィトゲンシュタイン、29歳の1918年のことであった。

 この書は当ブログにおいては、Osho「私が愛した本・西洋哲学編」の中に位置し、あるいは、茂木健一郎の「意識とはなにか」ブックガイドの一冊でもあり、単体としても「ウィットゲンシュタイン入門」の文献案内の一冊としてもおっかけの対象となっている。まさに、ウィットゲンシュタインがウィットゲンシュタインであるための最大重要な一冊のひとつとなっている。

 この論文は、たぶん種々のヴァージョンがあるだろうし、全集に納められているこの稿がどの程度に定番として定着しているのかはわからない。しかし、全集としても版を重ねていることや、93年版には「別冊付録」として32頁ほどの小冊子がついており、黒崎宏が「ウィットゲンシュタインの生涯」という20頁ほどの原稿を寄せているところから、かなり興味深い版であることは間違いない。黒崎宏には「ウィトゲンシュタインから道元へ」など何冊かの関連本があり、いずれも興味深い。

 Osho「ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタインは本当に愛すべき男だった。」と語っている。

 それにしても「私が考えたことを以前考えた人がいるか否かは、私にはどちらでもよいことなので、私は拠り所を陳述しないのである。」というウィトゲンシュタインの言説には、ちょっと耳が痛い。当ブログは、延々と多くの書を読み、その拠り所を明確にしておくべく、ハイパーリンクを張り続けているからである。当ブログは、まるで、私が考えることなど、すでに誰かが考えてしまったことである、ということを証明するために書き続けている、とさえ思える。

 もし、ウィットゲンシュタインが、人生後半において二つ目の大きなピークである「哲学探究」を出すことになったとすれば、彼の天才が、人生前半における、バグのないプログラムを書く能力を冴え渡らせすぎたから、ということができる。

4・115 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。 p54

 一旦は小学校の教師を6年も勤めながら、その職を辞し、ウィーンに戻ってきた。その頃、彼は修道院に庭師をしながら、真剣に修道院に入ろうと考えた(別冊付録p10)ということである。

 この様な側面があるところに、彼の人間的魅力があるのであり、また彼の弱さがある。しかし、この弱さこそ、無機質な論理の世界が満たしてくれない、人生の魅力でもある。バグなきプログラムは最高形態ではなく、あらゆるアルゴリズムは常に破綻を含んでいなくてはならない。

5・631 思考し表象する主体は存在しない。
 もし私が「見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体についても報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないであろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろ重要な意味では存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるだろうからである。
 p96

 池田晶子は「私とは何か」と問うた。しかし、私はこの問い自体が間違っていると思う。問いが正しくなければ、正しい答えは得られない。正しい問いは「私は誰か」でなくてはならない。ウィトゲンシュタインが、ここで発している、主体や、私の身体、という言葉は、「私」という意識、というものに置き換えて行かれなければ、正しい解はでてこない。

6・4312 人間の魂が時間的に不死であること、従って死後も魂が永遠に生き続けること、はいかなる仕方でも保証されていないだけではない。なかんづくこの仮定が、人がいつもこれによって解決したいとすることを、全然果たさないのである。私が永遠に生き続けることによって謎が一体解決するとでもいうのか。今度こそはそもそもこの永遠の生が、現在の正と全く同様に謎めいていないのか。時間空間の中での生の謎の解決は時間空間の外にあるのである。
(解決されるべきものは決して自然科学の問題ではない。)
 p118

 池田晶子はふたたび「死とは何か」と問う。当ブログは、ふたたび、この問い方を訂正する。「死とは何か」が問われるべきではなく、「いかに死ぬか」だけが正しい問いだ。いかに死ぬかが問われれば、解として、いかに生きるかが提出されてくる。

6.53 本来哲学の正しい方法は、語られうることと、従って自然科学の命題、従って哲学とは何の関係もないこと、これ以外の何も語らない、というものである。そして他の人が形而上学的なことを語ろうとする時はいつも、彼が自分の命題の或る記号に何も意味を与えていないのを、彼に指摘してやる、というものである。この方法は彼には不満足であろう。彼は我々が哲学を教えているという感情を抱かないであろう。この方法が唯一厳密に正しい方法なのである。p119

 アルゴリズムが破綻しているからと言って、その向こうには何もない、と考えてはならない。その向こうにもごく当たり前の世界があるのである。地平線の向こうには何もないとか、水平線のかなたにはなにもない、と思ってはならない。それは、見ている視点があることを忘れている。地平線まで行けば、さらに向こうに地平線が見えるのであり、水平線のかなたには、さらに大きな大海原がある。

7 話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。p120

 不可能な事を語る必要はない。しかし、そもそも不可能なことを問うこと自体、不要なのだ。不要な解のために不要な問いを発する、という無駄を省けば、語られないことはない。

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2009/08/13

The Supreme Doctrine <1>

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「The Supreme Doctrine 」<1>
by Hubert Benoit (Author) October 1995 Publisher: Sussex Academic Press; Paperback: 234 pages Language: English 初版1955
Vol.2 No752★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 このユベール・ブノアという男----私は彼の第一作「手放し(レット・ゴー)」については触れたことがある。実際はあれは彼の2番目の著書だった。「手放し」を書く前に、彼はもう一冊「至高の教義」とよばれる本を書いていた。この本も加えておきたい。さもなければ、それに言及しなかったことで私はひどく辛い思いをするだろう。それは途方もなく美しい本だ。だが読むのはむずかしい。そして理解するのはもっとずっとむずかしい。だがブノアは、それを可能なかぎり簡明にするために最善を尽くした。Osho「私が愛した本」p96

 この本を読み解くのが難解かどうかを考える前に、この本に取り組む当ブログの体制づくりがむずかしい。手身近な図書館にはこの作者の本はなく、数少ない可能性である大手公立図書館から転送してもらい、最寄りの図書館に通って、館内閲覧という形で読まなければならないからだ。

 寝そべらないと本を読めない体質に加え、読み慣れない英文であり、ま分厚い。話題作りで、ちょこちょこっと目を通しておく、というやり方では、この本を読んだことにはならない。だが、せめての救いは、テーマ自体が、Zenや東洋思想についての考察であること。そして、著者の思考形態が、どこか図式的であり、かならずしも観念的でないところ、である。

 この本が最初に出たのは1955年。現在55歳の私が生まれた翌年ということになる。日本語文献であろうと、自分の得意のジャンルであろうと、自分が生まれた当時の本を読むとなると、やはりかなりな時代的なギャップを感じることになる。

 当時の出版状況も違っていたし、本の持つ意味合いも違っていた。世界の情報網の在り方も、全く違ったものであった。インターネットが発達し、交通がグローバル化し、図書館利用が実に簡便になった21世紀とは雲泥の差があったはずの時代の本である。思考そのものの質自体になんら遜色はないにしても、その本を取り巻く周りの環境はまったくちがっているはずだ。

 半世紀前なら、西洋人おけるBuddhismと言えば、たしかにZenSatoriTaoと言った、ステロタイプの東洋思想のなかにあったことは想像できる。しかし、20世紀後半、その歴史的背景の騒動もありながら、かなりの勢いでチベット密教(タントラ)が勢いを伸ばしたため、21世紀的西洋社会の仏教理解はほとんどチベット密教一辺倒とも言われる。

 その様な時代変化を経験する前の、20世紀前半的西洋的仏教理解の代表格の一人がこのユベール・ブノアである、ということのなるのだろう。形としては理路整然としており、やや異国情緒的な扇情的な感性は抑えられているものの、西洋哲学的な何処までも透徹した理論性を排し、未知なる神秘性に訴えようとする意図はありありと見受けられる。

 

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<2>につづく

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This Is It <1>

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「This Is It」 and Other Essays on Zen and Spiritual Experience <1>
著者Alan Watts 出版年1996, 初版1960  出版者 Rider 形態 xii, 140 p. ; 20 cm. 言語: 英語 出版地 London
Vol.2 No751★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 アラン・ワッツは20数冊の著書を持つ多作な作家だが、邦訳されているのは、当ブログが確認しているところでは、わずかに2冊と、かなり少ない。まるで日本人に人気がない、ということではないのだろうが、この作家の位置がいまいち日本の読者からすると、微妙なところにあり、ストレートに受け入れることができない、ということなのだろうか。

 ワッツの動画も結構流通している。

 『This is it』は途方もない美と理解の作品だ・・・・しかも光明を得ていない人間が書いたものだ。だからこそますます評価される。Osho「私が愛した本」p129

 この本は1960年にでている。ワッツがZenBuddhism、TaoSatoriといったテーマで書いた小さなエッセイ集たちが、小さな本としてまとめられている。日本という風土に生まれ、日常的に触れている「仏教的」雰囲気と、ワッツ達、「東洋かぶれ」とも見えるZenびいきの連中の言には、大きな開きがある。

 かたや墨絵的で保守的で、融通が利かない頑固爺さん的であり、かたやサイケデリックでカウンター・カルチュラルで、まったく型破りなヒッピーのにおいがする。この二つの流れが、互いに禅を語り、仏陀を語り、悟りを語る。同じことのはずなのに、何かが大きく違う。

 日本の仏教はどこかドメステッィクで内向的だ。あまりにありふれていて、その本来の意味など、どっかに忘れされてしまい、ただその器だけがゴロゴロと転がっている感じさえする。いや、それはイメージであって、内部的にはさまざまな工夫もされているし、進化もしている。だが、数千年に渡る文化や伝統が、大きく舵を切る、ということはそう簡単なことではない。

 それに比して、ワッツたちのBuddhismやZenやSatoriは、どこかハイブリットだ。つまり、欧米文化の中に、東洋精神を植えようとする、異種混合作業だ。エコカーとしてのハイブリッド自動車もまだまだ人気先行で 、本当の実績を上げるまでには至っていないが、地球人スピリットとしての、ハイブリッドZenも、すくなくとも、ワッツがこの本を出した50年前には、話題先行型のムーブメントであり、実質的な精神性がどこまで深化したかは、本当は定かではない。

 話題性があったればこそ、西欧ではワッツはアイドル的存在に成りえたし、表面的であるがゆえに、日本(や東洋など)では、いまいちキワ物としての色モノ的位置を脱しきれなかった。しかし、彼(ら)が位置した価値は決して小さくない。ワッツが後半生を過ごしたエサレンなどを中心としたスピリチュアル・ムーブメントの盛り上がりも20世紀的な大きなイベントだった。

 21世紀において、ワッツ達の一連の存在はそろそろ古典的な位置に後退し、本当の意味での、ハイブリッドな地球人スピリットが浮上して来なければならない時代になっている。まったく角度は違うが、すでにアメリカにはアフリカ系大統領・オバマが登場している。日本とて、墨絵的な箱庭的な世界にとどまってはいない。いまやクール・ジャパンだ。形や文化、伝統などを超えた、まったく新しい、まったく包括的な、より真実な、人類が歩み出す必要がある。

 ワッツたちが残した業績は大きい。日本人たちにはその価値がいまいちわからない。彼らの東洋かぶれは、いまいち底が浅いように見える。それではまだまだ理解が足らないような中途半端さを感じる。だが、それはそれで大きな意味を持っている。ともすると、伝統や日常のなかに埋没してしまい、曖昧化してしまう東洋文化を、ふたたび視覚化し、浅いところまで引き上げてくれた。あらためて認識させられることが多い。

 この本、小さくて読みやすく、分かりやすい。欧米人にとってはいまだに目新しく、再刊が続いていることも理解できる。しかし、ワッツ本人は、やっぱり生まれ変わって、この21世紀の地球人としてそのワークを継続する必要があろう。かつての色モノ的なハイブリット・スピリチュアリティが、地球上の本当のコモンセンスになる時代は、まだ来ていない。

<2>につづく

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2009/08/12

Maxims for Revolutionaries

Shaw
「Man and Superman」
George Bernard Shaw (著), Dan H. Laurence (編集), Stanley Weintraub (序論) 2001/1/2  出版社: Penguin Classics; New Ed版"288p 言語 英語,
Vol.2 No750★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

「Maxims for Revolutionaries」

 
The golden rule is that there are no golden rule. p251
黄金律がないのが黄金律だ。

 「革命家のための金言(Maxims for Revolutionaries)」は、「Man and Superman」の中の、「The Revolutionarist's Handbook」とともに巻末につけ加えられている。15頁ほどにごくごく小さな金言たちがまとめられている。

 警句家とも、皮肉屋ともとれる、名言の数々がバーナード・ショーの作品には多く見られるが、この本もまた、一句一句が、生きている。生き過ぎて、皮肉のための皮肉とさえ、取られかねないが、まっとうな意味をとらえてもらえるなら、短い一句一句が、重い存在となってくる。

Liberty means rosponsibility. That is why most men dread it. p252
自由は責任を意味する。だからこそ、たいていの人間は自由を怖れる。 

A learned man is an idler who kills time with study. p253
学問した人間は、勉強によって時間を費やす怠け者である。

Happiness and Beauty are by-products. p258
幸福と美は副産物にすぎない。

Economy is the art of making the most of life. The love of economy  is  the root of all virtue. p258
経済は大半の人生をつくる術である。経済の愛はあらゆる美徳の根源である。

The fatal reservation of the gentleman is that he sacrifices everything to his honor except his gentility.p259
典型的な紳士たるの条件は、上品な体面を保つことのほかは、すべてを自己の名誉のために犠牲にすることである。

Home is the girl's prison and the woman's workhouse. p262
家庭は少女の監獄であり、婦人の感化院だ。

 Osho「私が愛した本」の中に「革命家のための金言」として紹介されている。古いヴァージョンのMan and Supermanには、この金言集は含まれていなかった。

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2009/08/02

Man and Superman

Man_superman

「Man and Superman」 a comedy and a philosophy
by George Bernard Shaw : with introduction and notes by Y. Okakura (Kenkyusha English classics =
研究社英文學叢書) 出版者 Tokyo : Kenkyusha 出版年 1922(大正11年) /02 大きさ xix, 294 p.
Vol.2 No744★☆☆☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆

 「革命家のための金言(Maxims for Revolutionaries)」 を探して、この本を手にとってみたが、目的のものはなかった。どうやらペンギン版の中に収録されているようなので、さっそく、そちらもリクエストした。

 それにしても、この本、大正11年発行である。しおりのようにに挟まれていたのが昭和27年の学生さんの図書館借覧票。なんともレトロである。

 Oshoに言わせれば、バーナード・ショーが恋した少女がアニー・ベサントだった、ということになり、こちらも、なんともレトロなセピア色のクラシック・ラブストーリーが立ちのぼってくる。

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2009/08/01

Theologia Mystica<2>

<1>よりつづく

Theologia_mystica
「Theologia Mystica」 Discourses on the Treatise of St. Dionysius<2>
Osho 1983/07 Rajneesh Foundation Internatinol 368p 言語 英語,

 "Dionysius is a Christian, and one of the real Christians. It seems Friedrich Nietzche was not aware of Dionysius and his Mystica, otherwise he would not have said that the first and the last Christian  died on the cross two thousand years ago. In fact, there have been a few more Christs in the tradition of Christ. Dionysius is one of the most beautiful of them all." Osho裏表紙

 なるほど、そういうことであったか。「中世思想原典集成3」「キリスト教神秘主義著作集1」、ふたつの「神秘神学」をめくりながら、納得した。

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中世思想原典集成3 ディオニュシオス・アレオパギテス<2>

<1>よりつづく

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「中世思想原典集成3 」後期ギリシア教父・ビザンティン思想<2>
上智大学中世思想研究所 1994/08 平凡社 単行本 975p

「ディオニュシオス・アレオパギテス」

存在を超え、
神を超え、
善を超えている、
三一なるものよ

神としての知恵によって
キリスト教徒を指揮する者よ
神秘なる言葉の、
不可知をも超え、
光も超えた、
このうえない最高の頂へ
われらを導き給え

そこでは
純一なる、
絶対的なる、
不変なる、
神学の神秘が
隠れた神秘なる沈黙の、
光を超えた
闇に隠れていて

このうえない暗闇で
このうえなく光を超えているものを
輝くことを超えて輝かせ
触れることも
見ることも
まったくできないところで
目の見えなくなった知性を
美しさをこえている美しさで
充たすことを超えて充たす
   p447「神秘神学」第1章「神の闇とはどのようなものか。」

 「ギリシア教父の神秘主義」で引用した部分と同じ内容の文章だが、こちらは、より詩文的で、より読みやすく、イメージしやすい。まるで、「般若心経」か「「マハムドラーの詩」を聞いているようだ。

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ギリシア教父の神秘主義

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「ギリシア教父の神秘主義」 キリスト教神秘主義著作集1
谷 隆一郎 (翻訳), 熊田 陽一郎 (翻訳) 1992/11 教文館 単行本 408p
Vol.2 No743★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 
「中世思想原典集成 3」とこの「キリスト教神秘主義著作集1」が ディオニュシオス・アレオパギテスの翻訳であるらしい。これで「天上位階論」、「神秘神学」、「書簡集」、そして、こちらで「神名論」と「「神秘神学」が揃い、あとは「天使の位階論」を残すのみだという。

 これで、Oshoが言うところのディオニシウスの概観は分かり、Theologia Mysticaと呼ばれる「神秘神学」は、二書によって、二通りの翻訳が読めるということになる。

 存在と神と善を超えた三位なるものよ。キリスト教徒の神の知恵において統べる者よ。不知を超えた神秘な言葉の絶頂にまで我々を導いて下さい。そこでは神の言葉の単純・絶対にして不動なる神秘が、秘儀として隠された沈黙の、光を超えた闇において秘め隠されている。この神秘は最も深い闇のなかに最も明るい光を輝かせ、全く触れることも見ることもできない所で、何ものにもまさる美しい光で、視力を失った知性を豊かに充たすのである。p265「神秘神学」第1章「神の闇とはいかなるものか」

 この部分は、かの「中世思想原典集成」のほうでは、もっと詩文のように表現されており、内容にそれほど違いはないが、読み手としてうける印象はかなり違う。

 これで、最初Osho「私が愛した本」168冊のうち、「キリスト教」編に振り分けた6冊を手にとって見たことになるが、さて、これでみてみると、Oshoは単純にキリスト教というジャンルで見ているのではなく、キリスト教神秘主義という傾向をより強く持っているようである。

 それらの影響を受けたというより、Oshoから見た場合、その悟境と共鳴する可能性があるのは、キリスト教「神秘主義」というジャンルということになるだろう。

 さて、そうだとすると、すでに別ジャンルとして作っておいた「神秘主義」編に振り分けておいた「エックハルト」と、「ヤコブ・ベーメ」は、むしろこちらの「キリスト教神秘主義」に移転して来なくてはならないということになろう。そして、林語堂の2冊は、カテゴリーエラーとなり、「その他」編にでも入れておくのが正しい、ということになるかもしれない。あえて、あらたなるジャンルをつくれば、次のようになるだろうか。

「キリスト教神秘主義」編(暫定版)
「山上の垂訓」イエス・キリスト
「ソロモンの歌」     
「トマスによる福音書」      
「ディオニシウス」    
「エックハルト」
「ヤコブ・ベーメ」

 そして、これらの流れは現代のどのようなところへと繋がっているのかを考えた時、いわゆるM・ブラバッキーなどの神智学的なものに流れていったのではなかろうか、と想像する。

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2009/07/31

中世思想原典集成3 ディオニュシオス・アレオパギテス<1>

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「中世思想原典集成3 」後期ギリシア教父・ビザンティン思想
上智大学中世思想研究所 1994/08 平凡社 単行本 975p
Vol.2 No739★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

「ディオニュシオス・アレオパギテス」

 Osho「私が愛した本」の中の「キリスト教編」の6冊の一冊として「ディオニシオス」があり、そのディオニュシオスについてOshoが講話したのがTheologia Mysticaであることまでわかった。そして、そのディオニシウスの文献が「キリスト教神秘主義著作集1ギリシア教父の神秘主義」(教文館)と、この「中世思想原典集成3後期ギリシア教父・ビザンティン思想」(平凡社)にあることを、教えてもらった。

 思いもよらぬ展開で、さっそく、その2冊を検索してみると、最寄りの2つの図書館に別々に入っていることが分かった。なんともすごい展開だ。このような形で収録されていることは、通常の通りがかりの立場ではなかなか発見できない。感謝。

 さて、実際この本を手にとってみると、その分厚さに驚く。内容もなかなか難しそう。編集も「上智大学中世思想研究所」となっている。生半可なことなことを語っていたら、ひどい反撃を食いそうだ(笑)。ここは心して歩をすすめなくてはならない。

 それでも、目指すディオニュシオス・アレオパギテスの「天上位階論」、「神秘神学」、「書簡集」についての訳は、全部で180ページほどで、それほど長文ではない。章立てもそれほど長くもなく、読んで読めないこともなさそうだ。

 しかし、その意味は・・・・・。まずはともあれ、ページをめくってみることにしよう。

<2>につづく

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