カテゴリー「44)地球人として生きる」の108件の記事

2010/02/11

Haruki Murakami  What I Talk About When I Talk About Running

Harukimurakamirunning

 走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空は空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体でないものだ。僕らはそのような茫然とした容物(いれもの)の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。「走ることについて語るときに僕の語ること」p32

What I Talk About When I Talk About Running 
Haruki Murakami (Author), Philip Gabriel (Translator) Hardcover: 175 pages Publisher: Knopf; Fourth printing edition (July 29, 2008) Language: English
Vol.2 969  

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2010/02/10

村上春樹スタディーズ(2005ー2007)

村上春樹スタディーズ(2005ー2007)
「村上春樹スタディーズ」(2005ー2007)
今井清人/編集 2008/03 若草書房 全集・双書 297p
Vol.2 968★★★★☆★★★★☆ ★★★★☆

 年末年始から始まった村上春樹追っかけも「走ることについて語るときに僕の語ること」に至って、一旦終了したように思う。それはまるで、ケン・ウィルバーを追いかけていて「存在することのシンプルな感覚」に出会ったときのような、ちょっとした眩暈と脱力感がある。手元にいくつか残っているし、もうちょっと読みたいものもあるが、まぁ、この辺が潮時だろう。

 村上春樹がノーベル文学賞をもらうことにどれほどの意義があるのか量りかねるが、もしそういうことが起こるとすれば、彼の一連の文学作品とともに、このランニングに関するエッセイ集「What I Talk About When I Talk About Running」も必ず話題になるだろう。村上は作家として、そして一市民ランナーとして評価されるに違いない。この路線からヘルマン・ヘッセの「ガラス玉遊戯」のような、新しい作品が生まれることを期待する。

 こちらのスタディーズ(2005ー2007)は「読み解く」の中の「村上春樹をもっと知るための7冊」のリストの中の一冊に数えられており、本来であれば、「クラウドソーシング」カテゴリのなかで読みたかった一冊である。当ブログの読書は着々と進み、現在は「地球人として生きる」カテゴリに来ており、しかもそれもこの本で107冊を数えるところまできてしまった。

 あと、一冊を読めば、このカテゴリは終了で、あとの残りは「私は誰か」カテゴリの中で読んでいくことになる。つまり、通常は3つ以上カテゴリを用意してきた当ブログではあるが、ここで一気に、たったひとつのカテゴリに収束させる。のこり40ほどあるので、そこまで一杯詰めたら、あとは「ブッタ達の心理学3.0」か「One Earth One Humanity」という名前で、新しいカテゴリをスタートさせようと思う。

 この「村上春樹スタディーズ」シリーズは、かなり硬派なクラウドソーシングで、このあとすでに2冊ほど出ている。ただ、まだ当ブログでは簡単に手が出ない。図書館に入っていない、ということと、ちょっと硬派過ぎて、読みこむのに時間がかかるからである。いずれ、「1Q84」もbook3がでるだろうし、またハルキワールドの話題が再燃することは必至である。その時、このシリーズが役だってくれるに違いない。

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村上春樹を読むヒント

村上春樹を読むヒント
「村上春樹を読むヒント」 
土居豊 2009/12 ロングセラーズ 単行本 191p
Vol.2 967★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆

 こちらはもう、ぶら下がり商法というか、コバンザメ商法というか、ほとんどなんでもありの出版業界の裏事情も関係しているかも知れない。

第1章 「ハルキワールドの音楽」─村上春樹を音楽で読み解く(音楽小説としての村上作品/タイトルに使われた音楽の場合 ほか)

第2章 「ハルキワールドの食事」─村上春樹を食で読み解く(主人公が好んで飲み食いするもの/ジャンクフード礼賛から、「まっとうな食事」へ ほか)

第3章 「ハルキワールドのファッション」─村上春樹をファッションで読み解く(ハルキワールドのファッションセンス/「服装=人格」 ほか)

第4章 「ハルキワールドの住居」─村上春樹を家と土地で読み解く(ハルキワールドの書き割り的リアリティ/「バーチャルの家」と「生活感のある家」 ほか)/おわりに 『1Q84』がよくわからないという人へ(ハルキ作品のリアリティは、音楽や衣食住の描写にある/1Q84ワールドの意味~現実が小説の真似をする世界) 目次より

 最近よく郊外に、アウトレットモールができた、とかいうニュースを聞くので、それなりに足を向けてみる。だが、もうその商店街のターゲットには、私のような高年齢層は含まれていなくて、ただただ、むなしく各店舗のショーウィンドウを眺めただけで帰ってくる。

 この本は、そんな疎外感を感じてしまうような一冊だ。小説の読まれ方は自由だ。なるほど、村上春樹という小説家はこういう読まれ方もされているんだな、と納得するための一冊。これもありなんだな。

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1Q84スタディーズ(book2)

1Q84スタディーズ(book 2)
「1Q84スタディーズ」(book 2)
Murakami Haruki study books 2010/01 若草書房 全書・双書 ページ数: 275p
Vol.2 966★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 こちらも立ち読み。それどころかbook1は店頭にもなかった。入荷間もないのか、売れすぎて再版中なのか不明。いずれにしてもこのシリーズは、一連のハルキワールドでは一番の硬派軍団である。ファン感謝デー・シリーズもなんだかなぁ、と思うが、正直言って、こちらの硬派軍団の一連の研究も、ちょっと硬すぎて、肩が凝る。

第1章 王権と物語(「王権」は繰り返される─『1Q84』における「性」と「血」をめぐって/B・Bはもういらない─『一九八四年』と『1Q84』/メディアをめぐる物語─切り替えのシステム1984/1Q84)

第2章 ジェンダーと暴力(言葉を排除したあとに─リトル・ピープルの呼びかけが意味するもの/見せてはいけない女たちの語らい─「表象そのものを通じた消去」をめぐって)

第3章 カルトと宗教(「カルト」と新宗教の間─『1Q84』における新宗教の表象/村上春樹とカルトの不気味な関係─『1Q84』の免疫学/小説は宗教に何を語りかけるのか─村上春樹と大江健三郎の差異) 目次より

 面白そうではあるが、いっぺんには頭に入らない。ここまでくると、そんなに肩意地張らなくてもいいんじゃない、所詮、小説なんだし、と言いたくもなるが、「自伝層」から「象徴層」への立ち上がり、ということを考えるなら、この辺は抑えておきたいところ。

 第3章では、「カルト」という概念の使用のされ方を歴史的に考察しながら、現実的な歴史過程におけるオウム真理教事件に回収されてしまわない方法で、世界に二項対立的境界線引きをしようとする欲望を乗り越えてくための道筋と方法を探究している。p16

 それはそのとおりだと思う。いずれゆっくり読める時がきますように。

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村上春樹「1Q84」の世界を深読みする本

村上春樹「1Q84」の世界を深読みする本
「村上春樹『1Q84』の世界を深読みする本」 
空気さなぎ調査委員会 2009/09 ぶんか社 単行本 174p
Vol.2 965★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 図書館に入りそうでなかなか入らない本。しかたがないので、店頭で立ち読み。パラパラとめくる。第5章「『乗り物』についての考察」p112がなかなか面白い。電車なども含めて、1984年当時の国内外の車が10台ほど紹介されている。私のようなクルマ好きなら、かならずあのシーンではこの車がでてきた、と記憶に残る。一台一台が意味あるのだ。しかし、これって、本当に「深読み」なのかな。

 第8章「カルト教団の秘密」p158は、なんだかなぁ、という気分。いまさらその世界をおさらいかよ、という気分にもなるが、現在の大学生が1995年の時には、まだ幼稚園にもついていなかったことを考えれば、これもいかしかたないのか、としぶしぶ納得。

 逆に、第3章「物語を形成する『音楽』の謎」p78などは、まったく予備知識がないので、これは要チェック。と言っても、そのうち、そのうち、とあと延ばしになって、結局はこの辺は、私の場合はどうでもいい、ということになりかねない。

 そう言った意味では、第4章「なぜこの『武器』が使用されたのか」p98あたりも、私にとってはどうでもいいところ。意味はあるだろうが、あんまりその「物語層」でウロウロしていたくない、というところが本音。第7章の「物語に『引用』される書籍・映画の世界」p136に紹介されている十数冊のことも気にはなるが、いますぐ、という気分にはなれない。

 私にとって「深読み」とは、物語層から自伝層、そして象徴層への遡及であるべきだと思うのだが、この本においては、物語層の強化、という意味での「深読み」になっているようだ。じゃぁ、それって深読みではなくて、幅読みでは、などと、いちゃもんをつけてはみるが、まぁ、それはそれ、物語の小道具たちを理解することも大切なことなのだろう。

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村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」<1>

走ることについて語るときに僕の語ること
「走ることについて語るときに僕の語ること」 <1>
村上春樹 2007/10 文藝春秋 単行本 241p
Vol.2 964   

 走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空は空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体でないものだ。僕らはそのような茫然とした容物(いれもの)の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。p32

 ゆうべ小森 陽一の「村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する」をめくってから、私はなんだか、とてもへんな空間へと飛ばされてしまったみたいだ。いや決してあの本を読んだわけじゃない(いつものことだ)。めくっただけだ。だが、あの本をめくった時刻頃に、なにかがなにかのボタンを押した。

 自伝層としての村上春樹を知る上で、現在の村上春樹はこの本に「すべて」語られているのではないか、とさえ思う。物語層としては、現在継続中の「1Q84」でもいいだろうし、あるいは「アフターダーク」はともかくとして、「海辺のカフカ」なり、あるいは他の小説とのつながりを読んでいくことも可能だろう。でも、2007年に出された本とは言え、そして書きおろされたのは、もうすこし数年前だったとしても、彼が今「地球人として生きる」ポイントは、この本に示されていると言っても過言ではない。

 そして、物語層、自伝層、の上にある、あるいは、トリニティの一つのポイントとして位置する象徴層を、的確に表しているすれば、上に引用した一文で、すべて足りていると言えるだろう。

 亀山郁夫が「カラマーゾフの兄弟」の続編として期待する第二の小説の象徴層のテーマ「絶対権力と自由、テロルとその否定、科学と宗教などの対立の中で、その奥底に意識される<性>」という命題は、上の村上春樹の的確な一文で解を得ている、と理解することができる。

 今年後半に、私は56歳と7カ月になる。とりたてて何かが計画されているわけではないのだが、このポイントは私にとっては大事な通過点となる。それはそう決まっているわけではなく、自分でそう決めているだけなのだが。

 21歳のときにOshoの本に出会った。でも実際にその門弟になったのは23歳の時だった。7歳の時に父親が亡くなった。と書きたいが、実は8歳になって4日目のことだった。14歳の時もいろいろあった。臨死体験、と書いておきたいが、あれはあれとして、この年頃で特筆すべきは初恋のことであろう。

 29歳、というのも特別な年廻りだった。小さい時から、自分でそう決めていた。歴史的な人物たち、たとえば、ブッタとかキリストとか道元とか、あるいは日蓮やあるいはほかのいろいろな人たちが29歳で、特別な体験をしている。昔は数え年で年齢を数えたので、本当は28歳だったのかも知れない。しかし、この30を一歩手前にして、というところが、なにかを象徴している。

 私の29歳の時には、そういった意味では、大した体験はなかった。しかし、外的な体験はなかったとしても、そしてほとんどなにもないごくごく平凡な家庭生活の中だったけれども、自分で決意したことがある。「Oshoと一生一緒に生きていこう」と。たしか村上春樹は29歳の時に、初めて小説を書いたのだった。

 小説を書こうと思い立った日時はピンポイントで特定できる。1978年4月1日の午後1時半前後だ。その日、神宮球場の外野席で一人でビールを飲みながら野球を観戦していた。(略)僕が「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったのはその瞬間のことだ。晴れ渡った空と、緑色をとり戻したばかりの新しい芝生の感触と、バットの快音をまだ覚えている。そのとき空から何かが静かに舞い降りてきて、僕はそれをたしかに受け取ったのだ。p46

 私も何か書こうと思った。毎日こうしてブログを書いているのだが、もうすこし角度を変えて、まとまったものにしなければならないのではないか。もちろん、作家たちのような作品にしようという魂胆ではない。しかし、自分史的にも、ある程度のところでまとめておかなくてはならないだろう。

 いままで1975年、21歳の時に、自分たちが作っていたミニコミ「時空間」で、「雀の森の物語」というものを書いた。ガリ版で、ごくごく少数の出版物だったので、私の手元にはあるが、ほとんど現在所有している人はいないだろう。でも、それでいいのだ。読まれることが目的ではなく、書かれることが目的だったから。

 そして、それから17年経過した1992年に「湧き出ずるロータススートラ」という文章を書いた。それは上の部分を包括したものではあるが、もっと長いものになった。当時京都からでていたミニコミ「ツクヨミ」に、前半、後半として二回にわけて掲載してもらった。これもまた、どこかに眠ってはいるだろうが、読まれるような文章ではない。一応はネット上には貼り付けておいたけど。

 そして、あれからさらに17年が経過して、昨年あたりから、なにかがもう一杯になってしまった感じがしてきている。この辺で一回、器を空にする必要があるだろう。

 どんな形にするのがいいのだろう。小説がいいのだろうか。ノンフィクション風がいいのだろうか。どこに発表するのがいいのだろうか。それとも単に個人的な手帳を保存しておくように、パソコンのハードディスクに文書ファイルとして残せばそれで足りるのだろうか。

 いろいろ考えてみたが、結局、現在、自分が書いているブログを、すこしづつ自分の「自伝層」として活用していくしかあるまいと思った。読まれなくてもいいし、読まれて「しまう」かも知れない。しかし、書かれようとしている物事があるとするならば、表出されることに力を貸してあげることも必要だろう。

 56歳と7カ月とは、とくに意味はない。出口王仁三郎は、その年齢以降からの自分が本当の自分だ、と言った。Oshoは56歳と7カ月の時、88年の8月に日本に来た(霊的に伊勢に来たという意味)。私には、そんなに大層なことはなにもないだろうが、ここ10数年、ボランティア活動や子育て(自分育てでもあるが)で結構暇がなかった。そのことをゆっくり考えることがなかった。

 今年後半に来るそのポイントのために、私は昨年からすこしタイムスケジュールのスピードを落としている。そして、もっと自分らしく、ニュートラルになるよう心がけてきた。そうなっているところもあり、まったく、そうなっていないところもある。いやいや、私がそういう試みを持っていることを知ってしまったかのように、リアリティのほうが次から次と問題を起こしてくる、という傾向もある。

 しかし、ものごとは諄々とすすんでいる。過去のことを考えれば、どうやらそのポイントは、とくに私の場合は、すこしずれてやってくるようにも思う。だから、もうすでに起きてしまったかもしれないし、実は、もう少しあとからやってくる、という可能性もないではない。しかし、予感は予感としてある。

 僕としては、できることならこの本を書くことを通して、僕自身にとってのその基準のようなものを見いだすことができればという希望があった。そのあたりがうまくいったかどうか、僕にもあまり自信はない。でも書き終えた時点で、長く肩に背負っていたものをすっと下ろすことができた、というささやかな感触のようなものがあった。たぶんこういうものを書くには、ちょうどよい人生の頃合いだったのだろう。p237

 この本は2005年8月5日 ハワイ州カウワイ島の走りから始まる。1949年1月生れの村上春樹、ちょうど56歳と7カ月の時だった。 

<2>につづく

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2010/02/09

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)
「村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する」
小森 陽一 2006/5 平凡社 新書 280p
Vol.2 963 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 2001年「9・11」の1周年にあたる2002年9月11日のちょうど1日前を刊行日として、村上春樹の7年ぶりの長編小説「海辺のカフカ」は出版されました。p7

 なるほど、そうであったか。そういう視点でこの小説を読んだことはなかった。最近まで、村上春樹と村瀬春樹の違いさえ知らなかった私である。その小説など、読んだこともなかった。ましてや2002年当時、ひとつの小説がそれほど話題になっていたことなんて、とんと我関せずだったのである。

 もっとも「海辺のカフカ」というタイトルや、なにやらカフカ賞をとったということは知っていた。もちろん、カフカの小説は10代の時にいくつか読んだ。グレゴール・ザムザが主人公の「変身」などは、いまだに背筋がぞくぞくっとするほど、記憶している。もちろん、9・11も知っている。知っているというより、21世紀の最初の年にあの忌まわしい事件があったことを忘れている地球人などひとりもいないだろう。私だって忘れてはいない。

 私が「ねじまき鳥クロニクル」にどうしても違和感を感じるのは、1994~5年に出た小説である、ということだった。あの時代、あの小説を自分は読んでいただろうか、と思うと、なかなかイメージができなかった。だから、どうしても違和感がある。ヤスケンの精読批判にいくばくかの共感を持つとしたら、そういう時代背景もあったからだ。

 さて、私は「海辺のカフカ」をとても面白く読んだ。読んだと言ってもごくごく最近のこと、わずか一カ月前のことである。その時代背景など考えたりしなかった。ただただストーリーを追いかけることができただけで満足していた。

 2002年9月。私は子どもが通っていた高校のPTA会長をしていた。そしてそれだけではない。私の周囲ではある事件が勃発していた。その高校の野球部が、地方大会で優勝して甲子園に行ったからである。地域の公立高校としては、40年ぶりの珍事だった。

 いまではプロ野球のトップ投手を務めている選手たちを擁する有力な強豪高校が他にもあった。にもかかわらず、わが高は、あれよあれよというまに地域優勝してしまったのだ。それからの怒涛のような日々を今ここで書くだけの余力はない。ただ、そういう日々があった。

 あの頃、私は小説を読もうなんて思っただろうか。しかも15歳の少年が家出して、四国に旅する小説を。(そういえば、甲子園で対戦したチームは、四国の高校だった)。目の前には、いつも15歳の少年たちがいた。「海辺のカフカ」の少年と、目の前にいる少年は同じ15~6歳の少年ではあった。その内面はどこかでリンクしていたことはあっただろう。

 私のなかでは、物語層としての「海辺のカフカ」と、自伝層としての「甲子園」、そして象徴層としての「1QQ5」は、まったくリンクしていなかった。そんな作業の必要性を考えることもなかった。9・11のことは大変な社会問題になっていた。あの事件に挑発されて、どこかの国の高校生がセスナ機を飛ばして撃沈した。そのことをPTAの会誌に書いたことは覚えている。

 学校の前には、谷を挟んで、国立病院があった。あの病院で、40年前、父は死んだ。5年間の療養生活の果ての病死だった。私は8歳だった。たぶん、私が小説を書ける人間なら、あの日々のことを書くだろう。子どもの時のことと、自分の16歳の時と、自分が父になって、16歳の少年たちと生きていた日々。

 物語層としての「海辺のカフカ」を、ゆっくり、あの2002年という時代の中で考えてみると、自伝層としての「甲子園」が連動して動きだす。たくさんのストーリーがあったのだ。私には、小説なんていらなかった。自前のストーリーが幾重にも絡みこんで、存在していた。

 あの葛藤の中で、私の象徴層「1QQ5」はどうなっていたのだろう。そう考えてみると、なるほど、ああ、ブチ切れているかもしれない。

 たくさんのシンボルが浮かび上がる。死。龍神。戦争。旗。旅。鏡。空。おもちゃの電車。父。小さな編み箱。40年。歓声。8月15日。豚舎。天皇。ラジオ。結核。校歌。街頭。ニュース。夜行バス。ヒット。そして、ふたたび死。太陽。

 なるほど、なにかの流動が始まった。「海辺のカフカ」。いつか再読する機会があるだろう。ひとつひとつに分かれ、そして再び繋がりなおす。

 豊かな言葉は、死者と対話しつづけてきた記憶の総体から産まれ出てくるのです。漢字文化圏における「文学」という二字熟語は、漢字で書かれた死者たちの言葉すべてについての学問のことです。21世紀こそ、「文学」の時代として開いていくべきなのだと思います。p177

 なんだか、不思議な一冊だ。

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村上春樹・戦記/『1Q84』のジェネシス<2>

<1>よりつづく

村上春樹・戦記/『1Q84』のジェネシス
「村上春樹・戦記/『1Q84』のジェネシス」 <2>
鈴村 和成 2009/8 彩流社 単行本 229p

 この本、いつもと違う図書館ネットワークから借りているので、一旦返せば、ふたたび借りるまで時間がかかる。もちろん、また引用したいと思えば、書店の店頭に並んでいる旬な本なので、いくらでも読みなおすことはできる。だが、この本を読みなおすことがあるだろうか。

 まず最初の「1Q84」の関連のところだけ読みなおし始めたのだが、すぐ目についたのが、誤植(たぶん)。「1Q84」となるべきところが「1Q89」となっていた。まぁ、洒落でこのように表記することがはやっているし、あとがきでも「200Q年7月某日」という日付が採用されているので、「1Q89」も有りかな、と思ったが、どうも繋がりがわるい。やはり誤植であろう。

 もともと誤字脱字の密林である当ブログ(笑)が、よそ様の文章の誤植をどうのこうのと言える立場ではないが、それでもやはり、「1Q84」の出版に合わせて急いで作られた一冊というイメージは否めない。解読も、説明も、あるいは脚色のしかたも、ちょっと要注意本なのではないだろうか。

 透明なものによってしか透明なものを解体することができない。「1Q84」とはカルト教団の共同体を恋人たちの共同体によって脱構築する物語なのだ。p37

 これはまた断定だ。個人的にそう思うのは構わないが、一冊の本として出すには、すこし勝手すぎるように思うがなぁ。どうして「1Q84」の中にでてくる集団を「カルト教団」とはやばやと決めつけてしまうのだろう。また、天吾と青豆だって、「恋人たち」と、結論づいているわけではない。早とちりのそしりを免れない。それに「透明なもの」ってことば、どこかあやしくないですかね。

 もう開くこともないかもしれないので、さらさらとめくってみて、メモだけ残しておく。

 ハルキ・ムラカミの生成はもはやとどまることがない。僕らの脱構築的なハルキ・ムラカミの読書も同様、もはやとどまることを知らない。p82

 この人の文章はかなりハイテンションですなぁ。酒(クスリでもいいが)でも飲みながら、書いているのかしらん。

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「本など読むな、バカになる」 安原 顯

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「本など読むな、バカになる」 
安原 顯 1994/07 図書新聞 単行本 286p
Vol.2 962 ★★★☆☆ ★★★☆ ★★★☆☆

「究極の愚作『ねじまき鳥クロニクル』精読批判」 

 あるとは聞いていたが、探してみたら、あまりに簡単にでてきたヤスケンの村上春樹批判。この本全体は、このために書かれたものだろうが、分量が足らなかったらしく、後半は、他のブックガイドになっている。今回、後半は割愛した。

 たしかに、「羊をめぐる冒険」とか「ノルウェイの森」、あるいは後の「海辺のカフカ」に比較すれば、「うずまき鳥クロニクル」三部作は、どうも首をひねらざるを得ない。ヤスケンは二冊組で出版された第二部までを持って批判しているわけだが、この本を書いている段階では、全五部作になるのではないか、という噂まであったらしい。

 それにしても、全二部で完結では、謎が投げっぱなしになってしまう。アメリカに滞在していた村上が、ポストモダンなさまざまな実験をしている、とか、新しい試みにさらに挑戦している、と言われても、はて、と一読者としては首をかしげることになる。

 裸の王様ではないが、言いたいことは言っておかなくてはならない。ヤスケンみたいに「究極の愚作」とまで決めつけることはできないし、もともとパラパラめくりの、スイスイ読みでしかない当ブログの読書は、「精読批判」などはできない。しかし、第二部までは、まだ、投げ出された謎解きを自分なりに受け止めて、さぁ、その第三部、となった時、はっきり言って、私の集中力は途切れた。これは面白くない。はっきりそう思った。

 後日、いや、やはり私の読み方が悪いのだろう、と思って、この第三部だけ再読した。しかし、評価は変わらなかった。私のパラパラめくりも、必ずしも舐めたものでもない。ほぼ大体のストーリーが頭の中に残っていた。ここも読んだし、あそこも見たよ、だけどなぁ、これじゃぁなぁ・・・。これが偽ざる本音だった。

 私にはヤスケンのような立場からは批判はできないが、ヤスケンは第三部を読んだあと、どのような評価をしたのだろう。私は、もともとこれが五部作である、と言われても、あと後半二部は読めないだろう。実際には、この「ねじまき鳥クロニクル」に掲げられたテーマは、別な小説に持ち越されているのではないだろうか。「1Q84」も「ねじまき鳥クロニクル」も、時代設定は1984年である。村上春樹は、ひょっとすると、あの小説を「書きなおして」いるのではないだろうか。そう見たほうが正しそうだ。

 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだ時、私が用いたのは「表の表、表の裏、裏の表、裏の裏」という、二重のパラレルワールド読みだった。これは割と成功した。そのように読めばわかる、というポイントをつかんだ。「ねじまき鳥クロニクル」では、私は「ルーツ&ウィング」という概念でこの小説をつかもうとした。しかし、それは、成功したとは言えない。

 なぜ成功しなかったか、というと、それは私の読みが甘かったというより、テーマとしては(つまり亀山郁夫のいうところの「象徴層」としては)「ねじまき鳥クロニクル」は完結していなかったからである、と考えてみる。

 つまり、私は今後、「1Q84」を読み進めるにあたって、「ねじまき鳥~」を読んだ時に思いついた「ルーツ&ウィング」という「解法」を、こちらの「1Q84」にも積極的にあてはめてみようと思いはじめた。「ルーツ」=「物語層」、「ウィング」=「象徴層」とした場合、「&」こそ「自伝層」になる。仮に、かのドストエフスキーが「続編」で書こうとしたものが絶対権力と自由、テロルとその否定、科学と宗教などの対立の中で、その奥底に意識される『性』」というものであったとすれば、「ルーツ&ウィング」という図式は、極めてわかりやすく、真理を得ていると思える。

 安原顕=ヤスケン、その「精読批判」はなかなか痛快だが、ちょっと言葉の波動が荒いので、今回はその本文を引用しないことにした。

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『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する<4>

<3>よりつづく
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する <4>
亀山郁夫 2007/09 光文社 新書 277p

 「第一の小説」を思い出してみよう。ここでの象徴層の最大のドラマが、第2部にあったことはいうまでもないことである。主題の軸はおそらく三つあった。イワンとアリョーシャの世界観の対立をなぞるかたちで「大審問官」とぞ島の「談話と説教」という巨大な対立軸が存在していた。まず、イワンの世界では、次のような二項対立の問題が提示されていたはずである。
1)キリストか、専制か
2)善か、悪か
3)自由か、パンか
 わたしたちの歴史は、この三つの二者択一からつねに後者を選んできたというのが、イワンの根本的な認識である。これがすなわち「象徴層」のドラマだったのである。
p190

 とするなら、第二の小説「続編」においては、キリストと、善と、自由、を選べばいいのでないか、と短絡するが、問題はそう容易ではない。

 大審問官にたいするイエスのキスはどういう意味をもっていたのか、承認のキスか、否認のキスか、読者も大いに判断に迷うはずである。(略)このドラマが、象徴層における議論の根本にあった。そして闘いは、二者択一的なものではけっしてありえなかった。そう、ドストエフスキーは、その双方を選んだ、つまりそのキスには二重の意味が含まれていたと考えることができる。
 キリストと大審問官の和解を、善と悪の和解を、そして自由とパンの和解を-----。
p191

 であるなら続編「第二の小説」の象徴層のドラマはどう展開するのか。著者は自問自答する。

 そこでわたしがいま示すことができるのは、ただ一つ、「大審問官」伝説にしめされた自由かパンか、個人か全体か、あるいは人間の愛にかかわる、もうひとつの議論のあり方である。p192

 第一の小説が、あれはあれですべて完結したのだ、と見ることも可能であるし、第二の小説「続編」があったはずだと考えることにも妥当性がある。そして、空想的かつ妄想的であると自嘲しながらも、著者は「続編」のひとつのサンプルを提示する。

 「第二の小説」では、コーリャが「第一の小説」ドミートリーのように表舞台に立つ。影の主役として「第一の小説」のイワンのようにアリョーシャがいて、この二人をつなぐ象徴k亭な存在としてリーザが配置される、そういう形が自然である。
 つまり「第二の小説における「物語層」のストーリーは、コーリャの皇帝暗殺計画と、それにかかわるアリョーシャの人間的「成熟」の物語となる。
 いっぽう、「象徴層」は絶対権力と自由、テロルとその否定、科学と宗教などの対立軸を中心に展開される。そしてその奥底には、つねに「性」の問題が意識されていることを忘れてはならない。
p259

 もし、村上春樹「1Q84」が、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を下敷きにしているとして、しかも失われてしまった第二の小説「続編」足りえようと努力する、と仮定したばあい、ここにおける亀山説をこのまま、とりあえずお借りしたいと思う。

 つまり、当ブログにおける「1QQ5」とは何か、という問いに対する、まず手始めのテーゼは、このようになる(だろうか)。

 絶対権力と自由、テロルとその否定、科学と宗教などの対立の中で、その奥底に意識される「性」。

<5>につづく

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