「走ることについて語るときに僕の語ること」 <1>
村上春樹 2007/10 文藝春秋 単行本 241p
Vol.2 964 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空は空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体でないものだ。僕らはそのような茫然とした容物(いれもの)の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。p32
ゆうべ小森 陽一の「村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する」をめくってから、私はなんだか、とてもへんな空間へと飛ばされてしまったみたいだ。いや決してあの本を読んだわけじゃない(いつものことだ)。めくっただけだ。だが、あの本をめくった時刻頃に、なにかがなにかのボタンを押した。
自伝層としての村上春樹を知る上で、現在の村上春樹はこの本に「すべて」語られているのではないか、とさえ思う。物語層としては、現在継続中の「1Q84」でもいいだろうし、あるいは「アフターダーク」はともかくとして、「海辺のカフカ」なり、あるいは他の小説とのつながりを読んでいくことも可能だろう。でも、2007年に出された本とは言え、そして書きおろされたのは、もうすこし数年前だったとしても、彼が今「地球人として生きる」ポイントは、この本に示されていると言っても過言ではない。
そして、物語層、自伝層、の上にある、あるいは、トリニティの一つのポイントとして位置する象徴層を、的確に表しているすれば、上に引用した一文で、すべて足りていると言えるだろう。
亀山郁夫が「カラマーゾフの兄弟」の続編として期待する第二の小説の象徴層のテーマ「絶対権力と自由、テロルとその否定、科学と宗教などの対立の中で、その奥底に意識される<性>」という命題は、上の村上春樹の的確な一文で解を得ている、と理解することができる。
今年後半に、私は56歳と7カ月になる。とりたてて何かが計画されているわけではないのだが、このポイントは私にとっては大事な通過点となる。それはそう決まっているわけではなく、自分でそう決めているだけなのだが。
21歳のときにOshoの本に出会った。でも実際にその門弟になったのは23歳の時だった。7歳の時に父親が亡くなった。と書きたいが、実は8歳になって4日目のことだった。14歳の時もいろいろあった。臨死体験、と書いておきたいが、あれはあれとして、この年頃で特筆すべきは初恋のことであろう。
29歳、というのも特別な年廻りだった。小さい時から、自分でそう決めていた。歴史的な人物たち、たとえば、ブッタとかキリストとか道元とか、あるいは日蓮やあるいはほかのいろいろな人たちが29歳で、特別な体験をしている。昔は数え年で年齢を数えたので、本当は28歳だったのかも知れない。しかし、この30を一歩手前にして、というところが、なにかを象徴している。
私の29歳の時には、そういった意味では、大した体験はなかった。しかし、外的な体験はなかったとしても、そしてほとんどなにもないごくごく平凡な家庭生活の中だったけれども、自分で決意したことがある。「Oshoと一生一緒に生きていこう」と。たしか村上春樹は29歳の時に、初めて小説を書いたのだった。
小説を書こうと思い立った日時はピンポイントで特定できる。1978年4月1日の午後1時半前後だ。その日、神宮球場の外野席で一人でビールを飲みながら野球を観戦していた。(略)僕が「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったのはその瞬間のことだ。晴れ渡った空と、緑色をとり戻したばかりの新しい芝生の感触と、バットの快音をまだ覚えている。そのとき空から何かが静かに舞い降りてきて、僕はそれをたしかに受け取ったのだ。p46
私も何か書こうと思った。毎日こうしてブログを書いているのだが、もうすこし角度を変えて、まとまったものにしなければならないのではないか。もちろん、作家たちのような作品にしようという魂胆ではない。しかし、自分史的にも、ある程度のところでまとめておかなくてはならないだろう。
いままで1975年、21歳の時に、自分たちが作っていたミニコミ「時空間」で、「雀の森の物語」というものを書いた。ガリ版で、ごくごく少数の出版物だったので、私の手元にはあるが、ほとんど現在所有している人はいないだろう。でも、それでいいのだ。読まれることが目的ではなく、書かれることが目的だったから。
そして、それから17年経過した1992年に「湧き出ずるロータススートラ」という文章を書いた。それは上の部分を包括したものではあるが、もっと長いものになった。当時京都からでていたミニコミ「ツクヨミ」に、前半、後半として二回にわけて掲載してもらった。これもまた、どこかに眠ってはいるだろうが、読まれるような文章ではない。一応はネット上には貼り付けておいたけど。
そして、あれからさらに17年が経過して、昨年あたりから、なにかがもう一杯になってしまった感じがしてきている。この辺で一回、器を空にする必要があるだろう。
どんな形にするのがいいのだろう。小説がいいのだろうか。ノンフィクション風がいいのだろうか。どこに発表するのがいいのだろうか。それとも単に個人的な手帳を保存しておくように、パソコンのハードディスクに文書ファイルとして残せばそれで足りるのだろうか。
いろいろ考えてみたが、結局、現在、自分が書いているブログを、すこしづつ自分の「自伝層」として活用していくしかあるまいと思った。読まれなくてもいいし、読まれて「しまう」かも知れない。しかし、書かれようとしている物事があるとするならば、表出されることに力を貸してあげることも必要だろう。
56歳と7カ月とは、とくに意味はない。出口王仁三郎は、その年齢以降からの自分が本当の自分だ、と言った。Oshoは56歳と7カ月の時、88年の8月に日本に来た(霊的に伊勢に来たという意味)。私には、そんなに大層なことはなにもないだろうが、ここ10数年、ボランティア活動や子育て(自分育てでもあるが)で結構暇がなかった。そのことをゆっくり考えることがなかった。
今年後半に来るそのポイントのために、私は昨年からすこしタイムスケジュールのスピードを落としている。そして、もっと自分らしく、ニュートラルになるよう心がけてきた。そうなっているところもあり、まったく、そうなっていないところもある。いやいや、私がそういう試みを持っていることを知ってしまったかのように、リアリティのほうが次から次と問題を起こしてくる、という傾向もある。
しかし、ものごとは諄々とすすんでいる。過去のことを考えれば、どうやらそのポイントは、とくに私の場合は、すこしずれてやってくるようにも思う。だから、もうすでに起きてしまったかもしれないし、実は、もう少しあとからやってくる、という可能性もないではない。しかし、予感は予感としてある。
僕としては、できることならこの本を書くことを通して、僕自身にとってのその基準のようなものを見いだすことができればという希望があった。そのあたりがうまくいったかどうか、僕にもあまり自信はない。でも書き終えた時点で、長く肩に背負っていたものをすっと下ろすことができた、というささやかな感触のようなものがあった。たぶんこういうものを書くには、ちょうどよい人生の頃合いだったのだろう。p237
この本は2005年8月5日 ハワイ州カウワイ島の走りから始まる。1949年1月生れの村上春樹、ちょうど56歳と7カ月の時だった。
<2>につづく
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