カテゴリー「44)表現からアートへ」の108件の記事

2010/01/14

村上春樹『1Q84』をどう読むか<2>

<1>よりつづく 
村上春樹『1Q84』をどう読むか
「村上春樹『1Q84』をどう読むか」 <2>
河出書房新社 島田裕巳 内田樹 森達也他 2009/07  単行本 222p

 この本は一度書店で立ち読みをしている。もちろん、30数名、40名近くの人々の意見をすべてを読んだわけではなく、気になる人間の読みやすい部分に目を通しておいたに過ぎない。もっとも、読書としてはこれでなんの間違いもない。どうせ、購入して読もうが、ベットに横になって何日もかけて読もうが、本というものは、残るところは残るし、精読したつもりでも、残らないところは、まったく残らない。とくに私の場合はそうだ。

 この本ばかりではなく、村上春樹の「1Q84」そのものも、あの段階では「立ち読み」しかしておらず、単にその書物が本屋にあったことを「確認」した程度の読み方でしかない。まぁ、大まかなストーリーはわからないでもないが、こまかいディティールについては無頓着に読み進めていくしかない。

 しかるに、図書館にリクエストしておいた「1Q84」が800人待ちの時間を超えて、ようやく年末に私の番にやってきた。年末年始の休み中に、タイミング良く、私はこの本を、私の読書としては異例なくらい、ゆっくりと読むことになった。

 面白いと思った。そして、これは続編が存在しなければ落ち着かない小説だと思った。そして実際、今年の4月には続編がでるという。それがわかった時点から、私はすこしづつ村上春樹の小説やら評論なりを読み進めるようになった。ジグソーパズルのパーツがすこしづつ揃いつつある。しかし、まだ10分の1くらいしか集まっていない。もうすこし埋めてみたい。

 そんなことを思っているとき、この本を思い出した。他の人々はどのようにこの本を読んだのだろう。この手の本がもっとでるかと思ったが、私が通う図書館レベルでは、この手の本はそう多くない。「1Q84」でいえば、あとは村上春樹研究会の「読み解く」くらいなものだ。そこで、こちらの「どう読むか」を、ゆっくり読んでみようと思い立ったのだった。

 ときあたかも、当ブログにおける「表現からアートへ」カテゴリは、107番まで数を数えており、あとひとつの書き込みで「108」の定数となる。つまり、このカテゴリ最後の一冊となるわけだが、あえて、ここはこの本でしめくくりたいと思う。

 もっとも、一回限りではこの本を読んだことにならないので、つぎの書き込みは「クラウドソーシング」カテゴリへとつながっていくことになる。すでに村上春樹関連についての書き込みは「クラウドソーシング」のなかで進めており、ひとり村上春樹という作家についてではなく、それを取り巻く状況、そして、村上春樹という作家そのものをさえ取り除いたところでの「状況」にさえ関心のある「クラウドソーシング」カテゴリとしては、この本を活用するのは、うってつけのように思える。

 さて、この本をどのように読むのかを考えている。順番に、この30数人の文章を読んでいくのだろうか。それとも、あたかも一冊の小説でもあるかのように、最初のページから最後のページまで順番にめくったほうがいいのだろうか。

 あらためてペラペラとめくると、たしかに読みたい文章もあるが、無視してしまいたい文章もある。ましてや、小説が出版されて間もないタイミングでこの本がでている限り、書いている(インタビューを受けている)本人たちですら、不本意な物言いになっている可能性もある。まずはそれらを含めても、最初は、順番に読んでいくのがよかろうか、と思う。

 そして、村上春樹の小説そのものも、現在、すこしづつ読み進めているところなので、全体を読み終わったあとに、また、この本を読んでみる必要もあるのかもしれない。また、book3などがでたあとに、再読する必要もあるだろう。

 まずはともあれ、「表現からアートへ」カテゴリと「クラウドソーシング」カテゴリの間に、この本が存在していた、ということをメモしておく。

<3>につづく

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2010/01/05

村上春樹の「1Q84」を読み解く<1>

村上春樹の「1Q84」を読み解く
「村上春樹の『1Q84』を読み解く」 <1>
村上春樹研究会 2009/07 データハウス 単行本 217p
Vol.2 No893★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 村上春樹研究会に属するのは平井謙、綾野まさる、藤枝光夫、の三名。この本を出すために作ったチームだろう。それぞれが第一部、第二部、第三部を担当している。はて、このような「解説本」の存在の是非を考えると、痛し痒しのところがある。

 ヘッセとフロイトのせめぎ合いのように、村上春樹を解析されたり分析されたりしても、本当のところはあまり面白くない。できれば勝手自由にそのフィクションの世界を味わっておればいいわけで、とやかく「読み解かれる」必要などないのである。

 とは言いながら、たとえば、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などは、「続編を空想する」だとか、「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」「小説家が読むドストエフスキー」などなどの副読本があったればこそ、小説嫌いを自認してやまない私でも、なんとかあの長編小説を読了することができたのではなかったか。

 とすれば、今回ようやく「1Q84」を読了し、ハルキワールドに手をつけようと思い始めたのも、これらの周辺の解説本があったればこそ、ということもできる。なにも全部を活用する必要もないだろうが、とにかく本体を読むのに役立つ範囲でなんらかの手がかりを他の本に求めることも悪くないだろうと思う。

 ということで、さっそくこの本を読んではみたのだが、まぁ、私には私の読み方があり、思い入れもある。いくら「研究会」の面々が「読み解いて」くれても、納得できないところも山ほどある。どちらが正しいのか、今度読み返してみよう、・・・・などと、気がついてみれば、いつのまにやら、まんまとハルキワールドにはまりつつあるのだった。

 白すると、初め何度もトライしても僕はこの「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読み進めることができなかった。一章を読み終えて二章に進む所で違和感が芽生え、止まる。何ヶ月か後にまた一章から始め・・・・・の繰り返し。それを何度やったことだったろう。今度読み進めることができなければもうやめようと再再再度? チャレンジしたある日そのハードルをすっと超え、この交互に展開する小説構造を持った作品を待ち望むようにまでなった。p19 平井

 ふむふむ。解説本を書くような御仁でも、小説を「読めない」時もあるのだ。この部分を聞いて、ほっとした。そんなもんなのか。みんな、もっとすーすー読んでいるものと思っていた。たしかに、面倒だなぁ、と思っていたが、こんど「1Q84」book3がでたりすれば、他の人を押しのけても、一番先に読んでみたい、と思うかもなぁ・・・。

 僕は20年近く前に、ある出版社から現代文学に関する評論集を刊行する依頼を受けた時、一つの章として村上龍の「限りなく透明に近いブルー」と村上春樹の「ノルウェイの森」を中心に論じることを予定していた。そしてその章のタイトルを「脳なき時代のソフトポルノ」というようにつけた。何故ならその頃、女のコたちがオナニーをするときにもっとも感じるのが「ノルウェイの森」で、男がずりネタに使うのが「限りなく透明に近いブルー」であるというアンケート結果が出回っており、それがとても印象に残っていたからである。p68 平井

 「限りなく透明に近いブルー」は、私も印象深く読んだ小説であり、記念碑的な作品であるとは思うが、あの小説をそのような目的で使ったことはない。というか、そういう使い方があったのか、とあらためて感心した。そして、ふむふむ、「ノルウェイの森」とやらは、そんな使い方もあったのかい・・・。そういえば、うちの奥さんもなんだか、やたらと小説に没頭しているときがあるが、小説嫌いの夫が、中身を見ないことをいいことに、トンデモナイ世界を浮遊している可能性もある。今後は、要観察だな。

 ヤナーチェックの管弦楽曲「シンフォニエッタ」とやらも、曰くありげになんども登場する。その他の小道具類も、それぞれのハルキニスト達にとっては、重要なポイントなんだろうなぁ。いろいろな楽しみ方があるもんだ。

<2>につづく

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1Q84 <4>

<3>よりつづく

【重版予約】 1Q84(イチ・キュウ・ハチ・ヨン)(book 1(4月ー6月))  1Q84(book 2(7月ー9月))
「1Q84」book 1(4月-6月) book 2(7月-9月)<4>
村上春樹 2009/05月 新潮社 単行本 554p

 正月休みを挟んでいたとは言え、すでに数週間の我が家滞在を終了しようとしているこの二冊の本から、要所要所に張り付けた付箋をはずしながら、本当は延長したいのにな、と思う。でも、自分の後ろにすでに並んでいる1000にも及ぶブッキングを眺めてしまえば、そのようなわがままは許されない。

 もっとも、再び予約し直すということはないだろう。さらに半年を待つほど気は長くない。ただ、いちど、半年予約待ち、という体験をして見たかった、というところにポイントがあった。本当に読みたければ、奥さんの言うように「買って」読めばいいのである。書店の店頭には未だに平積みで山積みされている。

 ただ、当ブログは、ネット上の公開ブログであり、また図書館から借りてきた本を読んでメモを残しておく読書ブログである。ほとんどがモノローグではあるが、できるだけ読み手との共有感覚を増やしたいので、可能な限り図書館から借りだしてきて読むことを第一議としている。(こづかいが少ないのも、大きな理由ではあるがw)

 さて、私は「1Q84」を買って再読するだろうか。それは大いにあり得るが、今回は私なりにゆっくり「精読」したので、すぐには買わないだろう。その前に、他の村上作品を何冊か読んでみたい。他のものならこんなに混んではいない。リクエストすればほぼ数日で手に入る。だから、それらに一度目を通してからまたここに戻ってくることのほうが妥当性がある。

 以下、ランダムではあるが、この小説を読んで感じたことをメモしておく。

1)、天吾、青豆、男女二人の重要登場人物とも、1954年生まれである。二人は小学生時代、10歳の時に同級生だった。奇しくもというべきか、読み手である私も1954年生まれである。そのような意味では、男性登場人物・天吾にはシンパシーを感じながら、読み進めることができた。

2)、時代、とくに1984年という年代は、二人とも30歳になりかけるところであり、また、読み手である私にとっても、重要な年代であったということはできる。個人的なメモはすでに「湧き出ずるロータススートラ」という短文にまとめておいたので、繰り返さないが、29歳時点での自分にはとても興味ある。そして、登場人物たちにそのイメージをオーバーラップさせながら読んでいる自分がいる。

3)、天吾は、進学塾で数学を教える人気講師でありながら、休日には小説を書いている文学青年である。ここに右手に「科学」、左手に「芸術」を抱えた一人の存在がある。この青年が、ブラックライターとして「空気さなぎ」のリライトを担当することによって、「意識(あるいは)神秘」へと誘われる。いままさに神秘の扉を開こうとしている。この設定には大いに関心を持つことができる。

4)、当ブログは、プログラマー、ジャーナリスト、カウンセラーという三つの職業の融合、あるいは、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、というメディアの三つの側面、あるいは、科学、芸術、意識(または神秘)などの三つのカテゴリ、そしてその具象化であるフロイト、ヘッセ、グルジェフの三人など、秘数3をたよりに、1、あるいは0の発見に努めてきた。現在は、なんと北山修、村上春樹、中沢新一(あるいはケン・ウィルバー他)という、あまりに無謀な比喩をつかいながら、試掘を繰り返しているところである。

5)、村上春樹は、この「1Q84」で、科学、芸術、神秘の融合を描こうとしているかに見える。あるいは、科学や芸術を通じて神秘へたどり着こうとしているかに見える。見事に神秘の中に消えていくのか、芸術の領域にとどまるのか、軟弱な読者でしかない私には、現在のところよく分からない。しかし、今後ハルキ・ワールドを読み進めるとしたら、その辺の関心を維持しながら、前後関係を意識しつつ読み進めることになるだろう。

6)、当ブログは、各カテゴリを108で締めることにしている。今回のこのエントリーで「表現からアート」カテゴリへの記事数は106となる。残るはあと二つ。どのような形でこのカテゴリが終了するのか、興味深い。ただこのカテゴリがもってきたテーマは次なるステージへと引き継がれる必要があるだろう。どのような形に引き継がれるのか、そこも興味深い。

7)、パソコンのソフトウェアのOS、そしてそのOSのもっとも最初の始まりとなるカーネルの部分がもっとも大切なところなのだが、小説「1Q84」のカーネルの部分にあたるのはふかえりが口承した「空気さなぎ」だった。当ブログにおけるカーネルはなんであろうか、と思いめぐらすと、「アガータ:彼以降やってくる人々」がそれにあたるのではないか、と思う。思えば、この言葉がやってきたのは1984年に遅れること2年、1986年であったことを考えると、当ブログは当ブログなりに、すでに「リトル・ピーブル」たちに見張られていたことに気づくのである。

<5>につづく

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2010/01/02

1Q84 <3>

<2>よりつづく

【重版予約】 1Q84(イチ・キュウ・ハチ・ヨン)(book 1(4月ー6月))  1Q84(book 2(7月ー9月))
「1Q84」book 1(4月ー6月)  book 2(7月ー9月) <3>
村上春樹 2009/05月 新潮社 単行本 554p

 すでに半年前にいつもの図書館に予約しておいた本だが、12月になってようやく私の番が巡ってきた。同時に予約したのに下巻だけが先にきてしまった。下巻から先に読むわけにはいかない。一週間ほどずれて上巻も届いたが、年末の繁忙期にゆっくり長編の、しかも話題になっている小説を読むわけにはいかない。

 ところが、年末年始の図書館の閉館期間を加えると、ちょうど私のところにこの本が滞在する期間は3週間ほどになる。通常なら、延長すれば2週間プラス2週間で、4週間ほど独占することができるのだが、今回はそういうわけにはいかない。なぜなら、私は800人待ちでなんとか読めるようになったのだが、すでに私のあとには、すでに800人以上の予約が入っている。

 この人たちは、あと半年後にこの小説を読むことになるのだ。地域の図書館ネットワークには上下巻全部で各30冊づつ入っている。800人÷30冊で各冊約30人づつが待っているとして、受取期間を入れると30人*3週間=90週間。全員が最大の「占有期間」を使えばのことだが、90週間÷4週間(1ヶ月)=20ヶ月。半年は6ヶ月だから、みんなはそれほど占有していることにはならない。でもすくなくとも一人一週間は占有している。

 私がこの本を占有していたのは3週間ほどだったが、実際読んでいくのにかかったのはほぼ1週間だった。もっと集中して読めばもっと短い時間で読めただろうけど、まさか以前のように書店店頭の立ち読みのように読む意味はない。かと言って、途中で挫折して頬売り投げることもなかった。

 もうだいぶ前になるが、夏頃、我が家の奥さんが自分用にこの本を借り出してきて傍らで読んでいた。彼女も数日から一週間ほどかけていたのではないだろうか。読み終わったあと、「この本は買ってもよかったね」と言った。自分が読んで、私が読んで、子供達にも回して、そして自宅にあれば、また読み返せる、と思ったのだろう。

 そのあとその本は、彼女の借り出し期間の残りの部分で私が読めるように、一週間ほど我が家にあった。だが、私は読まなかった。正確に言えば、「読めなかった」。他の本、それは特に新しい新書本だったりしたし、政権交代とかで外側の世界のにぎやかな雑踏についてのことが多かった。

 「空気さなぎ」とは、正確にはなにを意味しているのかわからない。フィクションだし、小説の中でも、明確に書かれているわけではない。その上、私のようなそそっかしい人間が、あわただしく長編小説を読んでも、頓珍漢な読み方しかしていないことも大いにありえる。しかし、それであっても、やっぱりこの小説は面白いと思う。ノーベル文学賞がどれほどの価値があり、どのような小説や作家に与えられるのか知らないが、もし村上春樹、1Q84、ノーベル賞、というキーワードが次第につながっていくのなら、それもありなのかな、と思った。

 僭越な言い方だが、私にとっては、当ブログもまた、ひとつの空気さなぎなのではないか、と思う。山羊の口からでてきた。リトル・ピープルが何を意味するかも、まだ明確ではない。また、ひょっとすると読み落としたのかもしれないが、天吾の母親についても、まだ明確ではない。レシヴァである「さきがけ」の教祖の生死も、実はまだ明確ではない。もちろん、青豆の生死も定かではない。

 いく人かの評論家は、この本の続刊が出される可能性はある、と言っている。つまり、「book3」だ。続刊がないことには落ち着かないところがいくつもある。それを書くためのインターフェイスは全部残されたままになっている。もっとも、小説なのだから、これで終わってしまっても構わない。

 2009年において、この本がベストセラーになった理由がわかるように思う。たしかに「村上春樹にご用心」だ。

<4>につづく

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2010/01/01

謹賀新年 2010年 元旦

   謹 賀 新 年
Hitifukujin
本年もよろしくお願いいたします。
    2010年 元旦

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2009/12/25

最後のガラス玉遊戯者 ヘッセ

ヘルマン・ヘッセ全集(第16巻)
「ヘルマン・ヘッセ全集(第16巻)」 全詩集

ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2007/04 臨川書店 全集・双書 531p
Vol.2 No884★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

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「最後のガラス玉遊戯者」

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遊戯の道具である色さまざまな玉を手にして

彼はうつむきながら座っている

まわりに広がる国土は戦争とペストに蹂躙され

廃墟にはキヅタが生えてミツバチが飛び回り

疲れた平和がおぼろげな讃美歌を響かせながら

老年に達した静かな世界にただよっている

老人は色とりどりの玉を数えながら

青玉をひとつ、白玉をひとつ掴み出し

大きな玉をひとつ、小さな玉をひとつ選び出し

それらを輪に並べて遊戯のために整える

かつては象徴をあつかう遊戯において傑出し

数多くの芸術と数多くの言語に熟達した巨匠

世界中を知り尽くす学識を誇り、世界中を旅して回り

世界の隅々にまでその名が知れわたった著名人

そして常に弟子や同僚たちに慕い求められた人だった

今、彼は取り残され、老いて消耗し、孤独に沈み

もはや彼の祝福を求める弟子はひとりもなく

彼を議論へと誘う遊戯名人もいない

みな逝ってしまったのだ

カスターリエンの聖堂も蔵書も学舎もない・・・・

老人はガラス玉を手にして瓦礫の山に憩う

かつて多くを物語った象形文字は

今はただ色鮮やかなガラスの破片にすぎない

それらは高齢の人の手から音もなく転がり落ち

砂の中に消えてゆく・・・・・

 p300

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ナルツィスとゴルトムント ヘッセ

ヘルマン・ヘッセ全集(第14巻)
「ヘルマン・ヘッセ全集(第14巻)」 ナルツィスとゴルトムント 
ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2007/08 臨川書店 全集・双書 331p
Vol.2 No883★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 ヘッセの世界を知るのなら、ぜひともこの「ナルツィスとゴルトムント」を読んでみたい。今回全集を各巻パラパラとめくりながら、読みたいけどどうしても読めなかったものに「荒野の狼」があった。また、この「ナルツィスとゴルトムント」も、内容もだが、量的にもかなりの長編なので、小説が苦手な私には、簡単に読むことはできない。

 量的には「ガラス玉遊戯」とほぼ同じくらいあるのではないか。前回このブログの中でブッキング版「ガラス玉演戯」を読んだ時も、読了するのに三週間ほどかかったので、こちらの一文も、それくらいのスパンで考えないといけない。

 なにも小説は急いで読まなくてならないものでもない。読めるタイミングがきたら、ゆっくりと味わいながら、読み進めたいものだと思う。

 さて、当ブログにおける「表現からアートへ」カテゴリもついに三ケタになった。通常、当ブログのカテゴリは、同時進行的に3つほど存在し、それぞれのカテゴリの記事数が108になったところで、ヒトくくりにして残していく、というスタイルになっている。

 今回も、あと残るヘッセのいくつかの作品や本をめくったりしていれば、やがてこのカテゴリも108になるだろう。そろそろ締めにかかる時期に来ている。はて、このカテゴリはどんな形で終わるのだろう。

 洋の東西を通じたひとつの人間性を追求したヘッセ。深く共感しながら、その「人間」にこだわるところに、ヘッセらしさがあり、また、ヘッセらしい「限界」があるとも、見ることができる。精神分析的に、暗闇のなかを深く照らしだそうとするヘッセの作品世界をさまよいながら、深い思索を重ねることも可能だろうが、本来、ゴータマ・シッダールタが到達したとされる「ブッタ」の境地に、あえて到達しまいとするかのヘッセがいるように思う。

 ログ・ナビから当ブログに与えられたお題は「シッダールタ」であった。それは決してヘッセを意味しない。しかしながら、ゴータマ・シッダールタ、であることも直接的には意味していない。一つの可能性として大きいのは、やはりヘッセの「シッダールタ」であろう。

 しかし、そこには「シッダールタ」はいずれ「ブッダ」になるのだ、という可能性が秘めている。やがて「ブッダ」になる「シッダールタ」にこそ、ログ・ナビは関心を寄せているのではないか。

 とすると、どこまでも「シッダールタ」の地平にとどまろうとするヘッセの世界に、長く拘泥することは、当ブログの構成上、必ずしも得策とは言えない。もしヘッセのなかに「ブッダ」への道を見つけることができない、とすれば、ここはすこし距離をおきながら、また新しい旅へと出かけるべきなのであろう。

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アッシジの聖フランチェスコの幼年時代 ヘッセ

<1>よりつづく 

ヘルマン・ヘッセ全集(第11巻)
「ヘルマン・ヘッセ全集(第11巻)」 <2> 子どもの心
ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2006/04 臨川書店 全集・双書 346p
Vol.2 No882★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

「アッシジの聖フランチェスコの幼年時代」

 
この「ヘッセ全集」の中で一番最初に手にしたのがこの第11巻だった。Oshoの「私が愛した本」リスト追っかけの中で、「ヤコブ・ベーメ」を探していて、この巻に収録されているヘッセの「ヤーコブ・ベーメの召命」に出会ったのだった。あれがちょうど半年前のことであり、あの時点では、このシリーズをまるまんま追っかけるようになるとは思ってみなかった。

 ヤーコブ・ベーメに関しては、日本においては「アウローラ」という一冊になっており、この本の確認はしたものの、まだ十分に読める体制にはなっていない。ただ、こちらのほうに、このような方向性があるのか、ということは確認しておいた。

 またこのシリーズ「ヘッセ全集」第2巻には「アッシジのフランチェスコ」1904年が収録されており、こちらの第11巻の「アッシジの聖フランチェスコの幼年時代」1918年のほうが続編であると考えられる。もっとも、「幼年時代」に遡ることになるのだから、逆にこちらのほうが前編となるべきかもしれないが、むしろこの「幼年時代」のなかに、ヘッセは自分の幼年時代を重ねているようでもあり、よりヘッセらしい作品と言える。

 実際は、ここからもっと「アウローラ」のほうへ展開していきたいと思っていた当ブログであるが、ヘッセの重力が、ヘッセ圏内から脱出しようとする読者を、強力に引き戻してしまうところがある。ヘッセは、どこまでも人間らしい作家である。ヘッセの「シッダールタ」もまた、どこまでも人間らしいシッダールタであったが、こちらのフランチェスコも、どこまでもヘッセらしいフランチェスコであった。

 Oshoのタロットカードにアッシジの聖フランシスのカードがあったことを思い出した。

Transf022thefoolishheart

 The crazy wisdom of Francis of Assisi

 ハートは岩に語りかけることができます……全き愛がその神秘を明かします。ハートからマッドに狂いましょう。
 アッシジの聖フランシスは確実に精神病院マッドハウスに入っていたにちがいない。樹に話しかけ、アーモンドの樹にこう言っている。「シスター、お元気ですか?」――もし彼がここにいたら、捕まっていたにちがいない。「シスター、私に神を歌ってください」と彼はアーモンドの樹に話しかけたものだ。しかもそれだけではない――彼はアーモンドの樹が歌うのを聞く! 狂っている! 治療が必要だ!
 彼は河に、魚に話しかける――しかも、彼はその魚が自分に応えると主張する。彼は石や岩に話しかける――狂っているという証拠ががほかにもまだ必要だろうか?
 彼は狂っている。だが、アッシジの聖フランシスのようにあなたも狂いたくはないかね? ちょっと考えてごらん――アーモンドの樹が歌うのを聞くことのできる能力、樹のなかの兄弟姉妹たちを感じることのできるはーと、あらゆるところに、まわりじゅうに、あらゆる形のなかに神を見るハート……。
 それは最大限の愛のハートにちがいない。全き愛がその神秘をあなたに明かす。だが、論理的なマインドにとっては、もちろん、これらのことはナンセンスだ。
 私にとてはこれらだけが意味のあることだ。狂いなさい。もしできるなら、ハートから狂いなさい。
OSHO 「ANCIENT MUSIC IN THE PINES」 p.171

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小人 ヘッセ

ヘルマン・ヘッセ全集(第9巻)
「ヘルマン・ヘッセ全集(第9巻)」メールヒェン 物語集7 1919~1936
ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2005/06 臨川書店 全集・双書 331p
Vol.2 No881★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

「小人」

 この第9巻においても、なにはとりあえず手にとって、その存在を確かめる程度で終わりにしておこうと思ったのだが、一番最初の「小人」を読み始めたら、やっぱり止まらなくなった。全集の中で数えて20ページだから、小品とは言えるが、なんだかSF小説の星新一のショートショートを読んでいるような気になってきた。

 小品は小品なりにピリリとスパイスが効いていて読み応えがある。思えば、「シッダールタ」や「ガラス玉遊戯」にしても、必ずしも、ひとつのストーリーでできているわけではない。むしろ、こうしたひとつひとつの小品が組み合わされて、大きなセット作品になっていると考えてもおかしくはない。

 それはまるで、コンピュータを動かすためのプログラムのようなものかもしれない。ひとつひとつの動作を確定するためのアルゴリズムがひとつひとつ重なり会い、最後は、大きなひと固まりのOS+主要アプリケーションとなる。

 この「小人」は1903年の作品だが、20代前半のヘッセは、さかんに習作を重ねて、OSのもととなる基礎の部分、カーネルを作ろうとしているかのようだ。村上春樹は自らを「プロの嘘つき」と表現したが、ヘッセもまた、自らがストーリー・テラーになるべく、さかんにその練習をしていたと言えるだろうか。

 メールヒェンは元来、グリム兄弟が収集した昔話のように、古くから口伝で伝え継がれてきた口承文芸で、伝説が特定の場所や人物と結びついた特異な事件を語るのに対し、人間の普遍的な運命を題材に、ごく平凡な主人公が、現世的な重力から解放されて次々に空想的な冒険を繰り広げる軽やかな展開を特徴としている。

 後の詩人たちが、メールヒェンの持つこの魅力に惹かれて自らのお話を紡いだのが創作メールヒェンである。ロマン派的な性向を持つヘッセの創作の本質はメールヒェンに通じており、最後の大作「ガラス玉遊戯」もまたひとつの規模の大きなメールヒェンと見ることもできる。p327「解説」

 メールヒェン。つまり、いわゆるメルヘンのことであろう。たしかにヘッセの世界そのものがひとつのメールヒェンだ。

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読書狂  ヘッセ

ヘルマン・ヘッセ全集(第8巻)
「ヘルマン・ヘッセ全集(第8巻)」 ロスハルデ クヌルプ 放浪 物語集4 1914-1918
ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2005/12 臨川書店 全集・双書 363p
Vol.2 No880★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

「読書狂」

 この巻に収められている「クヌルプ」は、先日、40年前の翻訳の文庫本で読んだ。ヘッセについてよく調べもせずに、でもいきなりヘッセが読みたくなって、お手軽に手元にあったものを読んだのだった。

 しかし、考えてみれば、せっかくの新訳が、ましてやこのような全集の中に収められているのだから、こちらを読めばよかったかな、とも思う。しかし、それはそれ、またそのようなチャンスが巡ってくるだろう。

 そういった意味では、この巻に収められている「夢の家」は、草思社版「庭仕事の愉しみ」の中に翻訳されていた、ということであるから、すでにそちらも読んでいたことになる。「庭仕事の愉しみ」は、当ブログのなかでは初めて読んだヘッセだったので、思いで深い。

 巻末にあった「読書狂」は笑いつつ、読んだ。小森健太朗の「ネメシスの哄笑」を思いだした。蔵書のなかに埋もれて暮らす人々もいる。物理的にも、精神的にも、書物の中だ。読書狂、とはよく言ったものだ。

 当ブログは、かならずしも読書狂ではない。もともと、かならずしも読書が得意ではないし、読書より面白いことどもについても知っている。それに本にまみれて暮らすライフスタイルというのは、この21世紀においてはちょっと、ダサいのではないか、と思う。

 Oshoもそうだったし、立花隆や松岡正剛などもそうだが、自ら図書館を持っていることを、ちょっと自慢げに話すところがある。たしかに本を読み続ければ次第に貯まってしまい、生活空間を圧迫してしまう。

 資金的に余裕がある人々は、もうひとつ部屋を作るなり、倉庫を借りるなりして自らの蔵書を保管する。さらに凝れば私的な図書館にしてしまう。その管理も難しいが、それらの何万冊という蔵書の活用もなかなか難しいだろう。読むことは読むだろうが、それを活用するとなると、なかなかできないだろう。

 現在、当ブログは、インターネットで本を探し、ネットから図書館にリクエストし、借りだした本についての簡単なコメントをつけて、ブログとしてリストアップしている。公開はしているが、基本的には個人的なメモである。私的に保管したければ、非公開にしてしまう手もあるが、今のところは、別にそれほど隠す必要性は感じていない。(もちろん積極的にさらすつもりもないのであるが)。

 読書ブログの良さは、自宅の住居スペースが圧迫されないことである。この4年ほどで当ブログでは2000冊ほどの本を読んだが、実際に購入した本は数十冊である。あとはほとんど公立図書館や大学図書館から借りてきた本。それらについては、自分なりに管理してはいるが、検索機能があるので、まるで図書館の司書にレファランスを受けているような便利さがある。

 そして、ここからが問題であるが、読書と言う趣味は、本との個人的な付き合いになりがちだが、ブログにおいては、公開性という特性があるので、これを使えば、密室での孤高な精神状態にならない、ということがある。

 当ブログにアクセスしてくる人々は、日に数十人から数百人。複数のブログを書いているので、一定ではないが、それでも常にアクセスはつづいている。この人々が何を思いアクセスして来るのか、何を思って立ち去っていくのか、すこし分からないところも多いが、たまに置き土産をおいていってくれる書込み者もいる。

 また、最近はアクセスログ解析があるので、その「読者たち」の性向も、完全ではないにせよ、すこしはわかる。決して、壁に向かって誰にも聞かれない独り言を書き連ねているわけではない。

 彼はこんな夢を見た。書物ばかりで高い壁を築こうと彼は懸命だった。壁はどんどん高くなり、もう本の壁以外何も見えなかった。世界中のあらゆる書物をここに積み上げて大きな建造物をつくるのが彼に課せられた仕事だった。

すると突然その建物の一部がぐらつき始め、書物は崩れ去り、ガタガタと音をたてて底なし沼に落ちていった。

 とぱっくり口を開いている隙間から、一条の不思議な光が差し込んできた。そして書物の壁の向こうに、彼は不思議なものを見た。光ともやの中にひとつの混沌を見た。(後略)p354「読書狂」

 当ブログはこのようにはならないだろう。もともと読書は苦手だし、そのうち飽きて、もっと別な趣味に関心が移っていくに違いない。しかし、現在のところ、インターネットと図書館、というシステムがうまいこと噛みあって、なかなかうまい流れができている。当面は、読書をこのスタイルで楽しんでいきたい。

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