カテゴリー「40)私は誰か」の108件の記事

2010/03/02

さがしてごらんきみの牛―詩画・十牛図

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「さがしてごらんきみの牛」 詩画・十牛図
絵と文 マ・サティヤム・サヴィタ  河合隼雄・解説 1992/10 禅文化研究所 単行本
Vol.2 982  

 この一冊をもって、当ブログの「私は誰か」カテゴリは108の書き込みに達した。残すは当ブログ<2.0>の7つ目のカテゴリ「ブッタ達の心理学3.0」の、新たなる108の書き込み、ということになる。そして、当ブログの2順目の読書であるVOL2も現在982目。あと42冊の新しい本を読めば、VOL2も1024冊の定量となる。

 つまり、残る42冊の新しい本を読んで感想の記事を書き、再読した本の記事を66個を書く、つまり合計108の記事を書けば、当ブログにおける何事かのサイクルの一つの終点ということになる。

 当ブログは自然と、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスの3つのステージを意識することとなった。こうしてみると、最初のVOL1は、ネット上のコンテナとしてのブログ機能を確認するための1024冊だったと言える。そして二番目のVOL2は、読書コンテンツとしての図書館機能の活用のための1024冊だったと言えよう。

 さて、やがてこの5~6月あたりにスタートするであろうVOL3は、はたして「コンシャスネス」のための1024冊となり得るだろうか。「意識をめぐる読書ブログ」としての、コンシャスネス「意識」をめぐる、とは一体どういうことであろうか。そんなことに思っていたら、今回monju氏の推薦(コメント書き込み)があった、この本のことを思い出していた。「さがしてごらんきみの牛」は、その図式をより明確にしてくれる一冊である。

とうさんもかあさんも知らない
小さい時から一緒に育ったぼくさえ知らない
だのに
なぜ
あのひとは知っていたのか・・・・・
見つかればわかる とあのひとは言った
でも 本当はみつかるかしら
ぼくの牛は 
0 「プロローグ - 一杯のお茶が教える牛の不在」

 十牛図については当ブログでもいろいろ見てきた。

「自由訳 十牛図」 新井満 2007/06

Three Pillars of Zen」 Roshi P. Kapleau 1908/07

「Zen Flesh, Zen Bones」 Paul Reps 1959

「究極の旅」 Osho 1978/3

「年賀状あれこれ」 2009年の年賀状アラカルト

 しかし、その中にあっても、この「さがしてごらんきみの牛」は、カラフルで、柔らかくて、深い、実に女性的感性が豊かな十牛図である。いや、これは円環しているから、もやは十牛図とさえ呼ばないかもしれない。解説の河合隼雄は書いている。

 10はまさに1+0である。それは終わりであり始まりでもある。
 この作品の出来上がる過程を知っているものとして、ここにひとつのエピソードを述べておこう。これは最初の1図から10まで描かれ、10図を描いているとき、作者によれば、「どこからか絵の片隅に不思議な人物が登場し」、どうもそれが形象化してプロローグの0図の2番目の不思議な老人になったらしいのである。つまり、この作品は0から始まったのはではなく、10の次に0へと続き、それはまさに円環を構成することになったのである。
河合隼雄「解説(コメント)」

 いままでも何度か借りてきたけれども、この美しい本を近くの図書館が所蔵してくれていることがとてもうれしい。多くの人の目に止まりますように。

 さて、当ブログも、大きなサイクル、小さなサイクル、日々日常の、終わりと始まり、始まりと終わりの円環の地点にいる。いや、よくよく考えれば、始まりもなく、終わりもないはずなのである。そういえば、オレゴンのコミューンのお祭りのとき、食べたクッキーの中におみくじが入っていた。

 「みんなが手をつなぎ、大きな輪になった時、誰が最初で、誰が最後か」

 この公案をとくために、一期一会、また新たなる旅にでることとしよう。

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2010/03/01

心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う <2>

<1>よりつづく
Kokoro
「心を商品化する社会」 「心のケア」の危うさを問う  <2>
小沢 牧子 (著), 中島 浩籌 (著) 2004/06 洋泉社新書: 222p
★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 「心ブーム」について時代を逆にたどっていくと、1980年ごろにひとつの山を見ることができる。それは90年代のカウンセリングや「心のケア」ブームとはやや趣を異にし、これに先駆ける、「精神世界ブーム」というべきものであった。瞑想、魂、霊と言った言葉群に代表される世界である。

 1980年に出版された「別冊宝島・精神世界マップ」の序文には、次のような言葉が並んでいる。「『理性の時代』から『精神の時代』へと、いま歴史の流れは大きく転換しようとしている」「さまざまな精神療法、禅やヨガ、東洋思想や神秘主義への関心が高まっている」「内へ向かう旅、魂の進化をめざす旅がニューエイジの合言葉になるだろう」など、現在の心理主義ブームとはいささか異なる雰囲気を持っていることが察せられるだろう。

 1985年に新宿の大書店紀伊国屋書店で催された「精神世界フェア」は人気を集め、このフェアに協賛した平河出版が発行していた雑誌「メディテーション」が、大きく売り上げを伸ばしたと言われる。ただしこの「精神世界ブーム」は、いささかおどろおどろしいもの、または「オタク」的な一部の人びとのものとして受け止められ、社会に大きく広がることはなかった。しかしこの現象は、人々の関心を内面へいざなうという意味で、のちの心理主義ブームへと水を引く役割を果たしている。

 このいささか重たい「精神世界」への関心が、一気に軽いムードに代わって「心ブーム」が作り出されたのが、90年代に入ってすぐのことである。1991年のTV番組「それいけ!! ココロジー」の人気に乗った同名の単行本が爆発的に売れたころから、「心」「心理」「カウンセリング」への関心が、急速に広がっていく。精神という漢字ではなく、心というカタカナを使ったあたりが、商品化に成功をもたらした要因のひとつだったのであろうか。重たいものは流行らない。軽いノリで、と。しかしそのことは逆に、人の暮らす状況が90年代に入ってますます重いものになってきたことを暗示してもいそうだ。p41小沢「作り出された『心』ブーム」

 こういうとらえ直しもまんざら悪いものでもなく、最初は面白かったのだが、だんだん、読んでいて苦痛になってきた。読み進めている自分がマゾヒストのように思えてくる。なんでそうなのだろうと考えた。これを書いている人は、分裂しているのではないだろうか。すくなくとも、これは、ひとりの人の体験が描かれたものでもなく、ある種のカリカチュアライズされたものだ。つまりフィクションだ。たしかに社会学的に、物事を並べて俯瞰しようという試みはそれなりに価値がありそうではある。だが、結局は自らが創り出したフィクションにハマっていっているのである。

 80年に「別冊宝島」を読み、85年に紀伊国屋に行き、91年に「それいけ!! ココロジー」を見ていた人はどのくらいいるだろう。この3つの体験に絞り込んだとしても、ひとりひとりの人間は、同じバランスでこれらの外界と接しているわけではない。ある人は、雑誌は好きだったけれども、テレビは嫌いだったかもしれないし、紀伊国屋には行ったけれど、「メディテーション」は買わなかった、という人もかなりいるはずである。

 これらを一面的に定型化してしまう作業の反面、この図式からずり落ちていく事象は、実は、ここに書かれていることより、はるかに多いことを忘れてはいけない。上の文章は、多少の具体的な事例を交えたフィクションとして読んだほうがいい。結局、この人はなにがいいたいのか。そこのところがポイントだ。

 この人は、「心」が嫌いなだけでなく、「瞑想、魂、霊」と言った世界がもともと嫌いなのだろう。いや、かくいう私だって瞑想も決して得意ではないし、魂やら霊という言葉だって、かなり苦手な分野に入る。しかしながら、それとこれとは大違いなのだ。好きとか嫌いとかの問題以前に、それらは「ある」のだ。このポイントに留意しなければならない。それが隠されていようが、表にでて表面的に流行しようが、「ある」ものは「ある」のである。少なくとも、「ない」ものとして蓋をしてしまったとしても、わずかこの新書一冊では隠しようがない。

 このようにして読んでいくと、自分がある程度わかっている部分については反論ができるけれども、いままであまり関心を持ってこなかった部分については、具体的に反証するほどの材料がない。ついついそのまま鵜呑みにしてしまいかねない。極端に言うと「洗脳」されてしまう。

 この本を読んでいて、感じるのは、ある重苦しい一つのトーン。まるで、どこかで一つの単音がずーっと鳴り響いている感じがする。最初は気になっていたのだが、ずーっと聞いていると耳が慣れてしまって、音が出ているのか出ていないのか忘れてしまう。だが、その空間を離れてみると、ふたたび、その音がずーっと鳴り響いていたこと気づくことになる。

 その鳴り響いているトーンは、一体なんであろうか。こだわりとか、執念とか、怨念とかに近い、モノトーンの悲鳴に近いなにかだ。泣いている少女の声がどこかでずーっと聞こえて続けているような、ちょっと背筋がさむくなるような、悪意にさらされているような奇妙さだ。

 当ブログにおけるZENマスターをめぐる冒険は、いまのところ、教育学や病理学、あるいは産業や介護とかの現場には距離をおいておく。そしてこのような社会学的なとらえ方にも拘泥しないことにする。より「私」であるために、もうすこし絞り込んでいこうと思う。

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「心の専門家」はいらない <2>

<1>よりつづく 
「心の専門家」はいらない
「『心の専門家』はいらない」 <2>
小沢牧子 2002/03月 洋泉社 新書 218p
★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 同じ著者の「心を商品化する社会(共著)とともに、忘れてしまってはいけない一冊と言える。「マズローの心理学」を読んだ時も、ちらっと彼女たちのことを思い出した。この本をここで再読して、当ブログとして確認しておくべきことはいくつかある。

1)当ブログが現在ターゲットを絞り込み中であるZENマスターとは、教育学や病理学から一線を画す位置にあるべき存在である。また、技能的に必ずしもゼネラリストであることを求められるわけではない。

2)診療臨床家の資格の法制化がこの本のテーマのひとつになっているが、ZENマスターとは、法制度のなかに組み込まれるような存在とは言えないが、法的な立脚点や、技能の公開性、透明度が高いことが求められる。

3)そもそもクライントありきでZENマスターを考えるのではなく、単独で、誰にも知られずに存在する可能性を残す。あるいは、クライエントは、一体、なにを求めているのかを絞り込む。教育学、病理学的解決策を求めるクライエントを、とりあえず、この段階では外して考える。

4)テーマとすべき問いかけは、「私は誰か」、「魂はどこにあるか」、「いかに死ぬか」の三つに、限りなく絞り込む。そして、安易な解決策はとりあえず用意されてはいないことを、クライエント、ZENマスターともに確認しておく必要がある。

5)求められているものは、フィクションや、薬物使用を前提とするような変性意識を必要とするものではなく、象徴的言えば、現実に、この地球の上に二本の足で立つことができる、個々の地球人に益するものであるべきである。

6)用語を作ったり、メタファーを活用することは構わないが、それらをやがては不要とする道をあらかじめ用意する。技能は技能としてあるが、その技能は固定的なものではなく、流動的かつ並立的である可能性がある。

7)これはあくまでも「意識をめぐる読書ブログ」としての今後の読書のテーマを求めているだけであって、これらの興味や関心を満たしてくれるような、面白い本はないかしらん、という程度の個人的な嗜好性である。

 学校や病院、あるいは産業の場や、介護施設など、隣接する分野はさまざまあるが、当ブログでいうところのZENマスターは、もうちょっと佇まいが違っているところに存在する。そして、もしその姿に妥当性があるのなら、現在のいわゆる「心の専門家」たちとの差異はどこにあるのかを、あらためて検討してみたい。この本を読みながら、そんなことを考えていた。

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ファミリー・コンステレーション創始者バート・ヘリンガーの脱サイコセラピー論

<1>よりつづく 
ファミリー・コンステレーション創始者バート・ヘリンガーの脱サイコセラピー論
「ファミリー・コンステレーション創始者バート・ヘリンガーの『脱サイコセラピー論』 
バート・ヘリンガー /西澤起代 2005/10 メディアアート出版 単行本 249p
★★☆☆☆ ★★☆☆☆ ★★☆☆☆

 この本の英語版のタイトルは「Acknowledging What Is」という。英語の苦手な私には、よくこのニュアンスがつかめない。Google翻訳では「何かを認め」となる。エキサイト翻訳では「承認して、何がありますか?」となる。まぁ、直訳的には、そういうことなのだろう、とAcknowledging するしかない。だが、すくなくとも、英語が苦手な私でも、ここから「脱サイコセラピー論」というところまで持っていくのは、かなりしんどい。

 どうしてこのようなタイトルの本ができあがったのだろうか。へリンガーはサイコセラピーを脱せよ、と言っているのだろうか。それとも新しく「脱」とかいうサイコセラピーを開発したのだろうか。仮に、サイコセラピーを「脱」っせよ、という教えだったとしても、サイコセラピーを超えて行け、というニュアンスがどうもつかめない。

 むしろ、サイコセラピーという概念を使いながら、そのサイコセラピーをやんわり否定することで、一つの自らの存在する位置づくりを探っているような、狡猾なニュアンスが伝わってくる。これは当然、著者の意図ではなく、翻訳者の意図であろうから、ひょっとすると誤訳、ということにもなろうかと思う。この本全体に、無意識から超意識へ、という方向性が見えているわけでもない。

 私自身確実に心理療法から多大なる恩恵を受けてきました。ほとんどすべての心理療法は、もともと経験から発達してきたものだということを忘れてはいけませんよ。
 フロイトの洞察は今日でも基本です。しかし、さらに、様々な分野において発達してきています。彼の手法の枠内に留まっている人は現在おそらくいないでしょうが、だからといって彼の洞察に価値がないわけではありません。それらは今でも心理療法の基礎であり、起源であり続けています。
p135

 へリンガーがそう言ったとしても、まだまだ「彼の手法の枠内に留まっている人」は、少なくとも日本なら、北山修などという姿を借りて存在している。さまざまな手法があり、さまざまな技法が開発されつづけるなら、古いものも新しいものもいろいろ出てくるのはあたりまえだろう。そして、それらをすべて統合的にマスターしているセラピストはいないだろうし、クライエントのことを考えれば、むしろそれは必要ないことだ。

 さて、現在、当ブログにおいて問うているのは、セラピストはZENマスターになりえるか、否か、ということである。あるいは、ZENマスターへと移行していかなければ、セラピーそのものが瓦解するはずだ、という仮説の検証である。

 あたりを見渡すと、地に足がついていない人びとがたくさんいるということに気がつきます。そのような人びとは、仕事に精一杯の力を注いでいる人と比べると、重みがありません。毎朝、牛に餌をやり、そして農場へ出て一日中働く、そんな生活を送っている農夫---この人が持っている重みと、「私は瞑想をしています!」と言う人の重みを比べてください。p91

 なるほど、この人の目からみれば、畜産業の人たちには瞑想はいらず、瞑想などにうつつを抜かしているひとは、牧場に行って、牛に餌でもやっていればいい、ということになるらしい。

 多くの「ニュー・エージ」の訓練が、ファスト・フードのスピリチュアル版のように私には見えてしまう---長期に渡る準備の必要なしに、あるスピリチュアルな姿の即席の訓練で到達できるとでもいうように。私がここで話しているのは成長のプロセスです。知恵とはただ求めたからといって、現れるようなものではありません。それは、たくさんの充実した行動から育まれるものであり、そしてただ現れるものなのです。それに向かって努力することなく。p108

 なるほど、世の中にはいろいろな考えがあるものである。とにかく当ブログは現在のところ両論併記で進もうと思う。しかし、それにしても、ニュー・エイジの「伝道者」を自任する吉福伸逸などというお方は、ゴールデン・ウィークの9日間と、243,000円さえあれば、「本当の自分自身と出逢える」と豪語しているらしいのだが、この考え方を挟んで、両者はどのように対峙することになるだろうか。

 真の自己実現は自分の内側からの招聘に従って歩むことで到達します。内側からの招聘とは、それぞれの人が仕えるよう招かれた特別な任務です。それをする人は誰でも実現しています。内的な平和があり、自分の領域において重みがある。職人でも、ビジネスマンでも、百姓でも、母親でも、父親でも、ミュージッシャンでも。フィールドは無関係です。あなたはただ、人生があなたを導くところで実現しなければなりません。それが達成することなのです。
 セラピーにおける私の第一のゴールは、クライエントがこのような自己実現に向かう手助けをすることです。
p171

 さて、この辺はそうとうに微妙な発言だ。まず、この方にとっての自己実現とは、なにかの役割=特別な任務に招かれることのようである。そして、クライエントがそのようになるように手助けをするのがセラピストだという。そうだろうか。当ブログのZENマスターは、クライエントが特別な任務に招かれるように手助けなどはしないのではなかろうか。

 私は心理療法をどちらかといえば魂のケアとして理解しています。私がクライエントの魂に何かをし、そしてクライエントは自分の強さとつながる。それはどこか宗教的で、スピリチュアルです。私の前からクライエントが去る時、彼らはより平和で、自分の運命がなんであろうが、それと調和して生きていける。もし私が彼らの運命を私の手中に収めようとするなら、私はおそらく心理--資本家でしょう、ある意味で。p175

 ふむ~。セラピストにはそれぞれのアルファベットがある。この方にはこの方のアルファベットがあるので、それに慣れるまでが大変だ。これは翻訳が適当でないのだろうか。それとも、この人の持っているキャラクターなり思想なりなのだろうか。

 この方には原書で約30冊の著書があるということだから、一冊めくっただけで全部をわかろうとするこちらが無理を言っているのは間違いない。それでも、いい線行っているようにも思うし、ちょっと違うと思ったりするところもある。もっと日本語文献があればいいのに、と思うが、現在のところ、当ブログが読めるのは、この本一冊である。 

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2010/02/28

無意識の探険―トランスパーソナル心理学最前線 <2>

<1>よりつづく
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「無意識の探険」トランスパーソナル心理学最前線 <2>
吉福 伸逸 (著) 1988/01TBSブリタニカ 単行本: 273p

 この本の内容は読まなくても分かっている。読む前に決めておくべきテーマは、「トランスパーソナル・セラピスト」は「ZENマスター」足りえるか、というものだ。

 と構えてググってみると、なんだぁ、私はすでにこの本を読んでいたじゃぁないですか。デジャブ感があったわけだ。せっかくだから、ここで、吉福伸逸関連リストを作成しておく。

「意識のスペクトル」ケン・ウィルバー /吉福他・訳 1985/04 春秋社

「宇宙意識への接近」 伝統と科学の融和 河合隼雄との共編1986/04 春秋社

「アートマン・プロジェクト」ケン・ウィルバー 吉福他・訳 1986/06  春秋社

「無境界」自己成長のセラピー論 ケン・ウィルバー /吉福・訳 1986/06  平河出版社

「意識のターニング・ポイント」 メタ・パラダイムの転換とニューエイジ・ムーヴメントの今後   吉福 伸逸,松沢 正博 1987/03 泰流社 単行本 p306

「個を超えるパラダイム」古代の叡智と現代科学 スタニスラフ・グロフ 吉福・訳 1987/07 平河出版社

「無意識の探険」 トランスパーソナル心理学最前線 1988/01 TBSブリタニカ

「自己発見の冒険」ホロトロピック・セラピー スタニスラフ・グロフ /吉福他・訳 1988/01 春秋社

「脳を超えて」スタニスラフ・グロフ /吉福他・訳 1988/07 春秋社

「トランスパーソナル・セラピー入門」1989/10 平河出版社

「生老病死の心理学」 1990/07 春秋社

「テーマは『意識の変容』」-吉福伸逸+岡野守也 徹底討論 1991/10 春秋社

「処女航海」-変性意識の海原を行く 1993/03 青土社

「流体感覚」1999/04 雲母書房

「楽園瞑想」 神話的時間を生き直す 2001/09 雲母書房

「トランスパーソナルとは何か」増補改訂版 2005/01 新泉社 

 さて、私は、ここで提言したいことがある。それは、「吉福伸逸をZENマスターにする会」というものを主宰するのはどうだろう、ということだ(笑)。この人、なんだかんだ言ってもやっぱり日本が恋しいらしいし、セラピーごっこもしたいらしい。ググってみると、すぐに商売の情報がでてきてしまう。

 吉福ワーク参加者から「もっと長い合宿を企画して欲しい」と頼まれて、吉福さんにお願いしたところ、「9日間あれば本当に僕がやりたいことができる」とコメント頂きました。2泊3日でも相当にハードなのに9日間もの合宿に参加する人が果たして何人いるか…?そう問いかけながらも「私が受けたい…今やらないと後悔する」と決心しました。吉福さんが「本気でやるよ」と引き受けてくださった最初で最後の9日間合宿ですもしも、本当に自分自身と出逢いたいと思うなら素晴らしい体験となるでしょう。「最初で最後、吉福伸逸の9日間合宿ワークショップの詳細」 http://koyo-sha.net/yoshifuku-sinichi.html (2010/02/28掲載文)  

 2010年5月1日~5月9日という日本のゴールデンウィークに日程を会わせているところが、すこし物悲しい。243,000円(税込)※宿泊費、食事代含みます。このセラピー料金を払えるならば、「本当に自分自身と出逢いたいと思う」人にとっては、安いものだ。ちゃんと「本当に自分自身と出逢」えたらね。

 「吉福伸逸をZENマスターにする会」としては、次の点を提案したい。

1)ドラッグ話はもうしないでね。

2)日程なんかどうでもいいのだから、9日間なんてケチなこと言わないで、もっと長期にやってほしい。365日が与えられているのだから。全部あげます。

3)料金は安くはないが、その値段になる理由をちゃんと説明してね。

4)あんまり、お話ばかりしないでね。いまの100分の1程度で、お話は十分です。

5)無意識がテーマなのではなく、超意識がテーマなのです。

6)独覚は独覚でいいから、他のなにか別なものに権威づけを求めないでね。

7)ちゃんと悟ってね。

 こういう話題をやっていると、面白いなぁ、とつくづく思うのは、一時行方不明だったオールドSなんかも、当ブログを覗きにくるところだナ。わが「意識をめぐる読書ブログ」も捨てたものではない。

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テーマは「意識の変容」

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「テーマは『意識の変容』」―吉福伸逸+岡野守也 徹底討論
1991/10 春秋社 単行本 270p
Vol.2 981★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆

 岡野については、いずれひととおり追っかけをしたいとは思っているのだが、仏教に造指の深い編集者、というイメージ以上のものがなく、いまだ、後回しになっている。

岡野 「アーガマ」(阿含宗が出しているが、宗教色のきわめて薄い、ユニークな宗教・思想の雑誌)で吉福さんがウィルバーの紹介を書いていたんですね。ぼくは、それ以前は新宗教の布教雑誌だという偏見を持ってたので、ぜんぜん見てなかったんですが、その少し前に当時の編集長だった松澤さん(松澤正博氏、現在は評論家として活躍中)とたまたま知り合って、彼が毎月ぼくのところに送るようにしてくれたんです。p15

 ほんとうは、最初の岡野の直感のほうが正しかったんではないかな。これは新手のイメージ戦略で、実際に岡野のように引き寄せられていった人々に、麻原とか、林郁夫早川紀代秀、などがいたことを考えれば、このイメージ戦略の効果は効果大であったことは間違いない。もっとも、吉福とこの桐山集団とは更に縁が深く、1977年当時創刊された「ザ・メディテーション」(平河出版社)という雑誌に、吉福はすでに盛んに寄稿している。この集団との「関わり」について吉福がキチンと整理した文章を書いたかどうか、寡聞にして知らない。

岡野 たとえば、唯識の八識構造論(煩悩でいっぱいのふつうの人間・凡夫の心=識を、五感と意識、マナ識、アーラヤ識の八識三構造でとらえる理論)は心の構造の基本をほぼ誤りなくとらえているし、それほそ大幅な修正の必要はないと思うんです。もちろん、ユングやフロイド的ないろんな知見を補充していく必要がありますが、骨子は基本的に修正する必要はない。p132

 ものごとを理論や構造としてとらえたくなるのは理解できるのだが、そこから脱出することのほうが、さらに難しい。

岡野 吉福さんは、サイ・ババとかラジニーシとかクリシュナムルティとか、それこそいろいろな人物に会っていますね。で、やはり、究極に近いものを肉体化しているという感じの人物には一人も会わなかったわけですか。p146

 この手の人々に精神的にもフィジカルにも「会う」という表現の使い方はそうとう難しいとは思う。が、あえて想像すると、Oshoに対しては、70年代後半、吉福という人は、数日間プーナのアシュラムを訪問し、新しく来た人々が座るべきスペースあたりで遠巻きに朝のレクチャーくらいには参加していた可能性があるだろう。それ以上は、ちょっと想像できない。

吉福 そのへんはなんともいえないですね。ただ、クリシュナムルティとラジニーシについては、「ああいう人だったら、これはまったくぼくの手には及ばない」というのはわかります。「ぼくとは心境が違う」というぐらいはわかる。ラジニーシとクリシュナムルティを同じように語ることができるかどうかわかりませんけど・・・・。ぼくがこれまで会った人のなかではあの二人ぐらいですかねぇ。ラジニーシのほうがまだ自己に対する執着があるかなという感じはありますけど。それ以外にまったくの無名の人で、きわめて人間的にひじょうに高い境地にいる人には何人も会いました。p148

 なんか偉そうな口調ではあるが、70年代後半当時のレポートとしては、立川武蔵のものより、まだましかな、と思う。

 ただ、当ブログにおける、ここでのカテゴリテーマは「私は誰か」である。あの人はブッダだ、あの人は「人間的にひじょうに高い境地にいる」などと品評会をしているわけではない。私は誰か、が話題なわけだから、吉福という人にここで問われているのは、必然的に「吉福さん、あなたは誰ですか」という問いなわけだ。当然、その問いは、この記事を書いている私自身にも降りかかってくる。

 さて、当ブログのこの「私は誰か」カテゴリの書き込みスペースも、次第に残りすくなくなってきた。次なるステップに向けて、いろいろ考えている。結局は、次なる「ブッタ達の心理学」カテゴリ3.0に向けて、読書方針を、ほぼ3つのテーマに絞ることができるのではないだろうか。

1)カウンセラー、セラピスト、臨床実践家、などいろいろな表現があるが、一体、この心理職の人々は「マイスター」から「マスター」になりえるのか、どうか、という見極め。あるいは、そもそも「マスター」になる道に至らなければ、この心理職というものはその存在し得ないのではないか、という仮説の検証。

2)最後のOsho-Zenシリーズの徹底した読み込み。

3)最終的には、なんでも、どんなものでも、楽しんで読めるようになること。本だけじゃなく、ビディオや音楽、その他のアートに関する自由な視点。そして、それらを読まなかったり、聞かなかったりもできる「自由」な境地への道筋。

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処女航海―変性意識の海原を行く

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「処女航海―変性意識の海原を行く」
吉福 伸逸 (著) 1993/03 青土社 単行本 277p 青土社
Vol.2 980 ★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆

 チリ地震津波による避難情報がとびかっている中、1990年代初めにハワイから日本に向けて、波乗り男が書いたこの本を読むことになったのも、何かの縁かと思う。

 被害に会われた方にはお見舞いを申し上げるとともに、他の地域においても限りなく被害が小さいものであることを願っています。

 本書は「異常体験の心理学」というタイトルで「イマーゴ」誌(1991年1月号~1992年8月号)に19回にわたって連載した原稿に、事実関係を中心にいくつかの修正をほどこして仕上げたものである。p170「あとがき」

 この本は、宮迫千鶴との「楽園瞑想」2001/09の対談の中で知った。たまたま近くの図書館にはあったが、ネットをググってみたが、幸か不幸か、必ずしも人気のある本とは言えなさそうだ。内容も、ハワイと薬物の描写がメインになっているようで、この1990年を過ぎても、この人は60年代のサイケデリック・ムーブメントが忘れられなかったんだな、という印象を、強く持つ。

 このファクターの極端な表現の一例は、ここ20年ほどのあいだに広まった新たな「体験的セラピー」や60年代から70年代にかけて一般に浸透していたサイケデリックスの体験に見い出すことができる。LSD、ペヨーテ、ヤエフアスカ、マジック・マッシュルームなどに代表されるサイケデリックスによって喚起される体験は、一般に信じられているような文脈を外れた単なる「幻覚」ではなく、深層の無意識の開示であることは、サイケデリックスをしっかり体験したことのある心理学者であればだれもが認めるところである。p64

 早い話が、すべからく心理学者はジャンキーになるべきだ、と極言しているかのようで、いかにも著者らしい。「深層の無意識の開示」。まぁ、言葉はきれいですがね。著者のポエジーの域を超えてはいないのではないだろうか。

 マリファナやサイケデリックスは、たとえば最近出回っているクラック、従来のコケイン、アイス(日本の覚醒剤にあたるメタアンフェタミンの一種で、こいらでは注射ではなく、喫煙可能なものも出回り始めており、クラック以上に危険なストリート・ドラッグとして警戒されている)などのスピード系のものや、ヘロインに代表されるダウナー系のドラッグとは区別すべきで、できれば何種類かのサイケデリックスに限っては臨床的、治療的、宗教的コンテクストにおける使用を許可するのが妥当である。p97

 ハワイから日本に向けて、薬物の密売マーケットの状況を体験的にレポートしているわけで、このような情報を必要とするむきには貴重な本となろうが、当ブログとは完全に一線を画す世界を「航海」している著者ではある。この人がなぜに、みずからの著書に「処女」とつけることができたのか、私には理解しかねる。

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2010/02/27

禅宣言 <9>

<8>からつづく
禅宣言
「禅宣言」<9> 
OSHO /スワミ・アドヴァイト・パルヴァ 1998/03  市民出版社 単行本 541p
★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 「意識をめぐる読書ブログ」としての当ブログもすこしづつターゲットを絞りつつある。あるいは、絞らないと前に進めなくなっているといえる。さて、どう絞り込んでいくのか。一言でいえば、当ブログはOSHO-ZENに向かう、ということにつきる。しかしながら、そこにむかうには、読書ブログと、OSHO-ZENはどう繋がってくるのか、という極めてデリケートなバランス感覚が問われることになる。

 そして本当のことを言えば、そういった意味において、この日本語のOsho「禅宣言」は、英語版「Zen Manifest」と微妙にニュアンスが違っていることを以前より気にしている。正直、違うだろう、と言いたいことが2・3ある。ただ、それは、この本とか、この本をつくった人々へのなにかのわだかまり、というより、むしろ、OSHO-ZENは、本では表現しきれない、というニュアンスのほうが強い。

 ウィトゲンシュタインは、「言いえないことは言うべきではない。それについては口をつぐむべきだ」という。まず、確認すべきことは、言いえないことが存在するということだ。そして言いえることもあるということだ。だから、言いえる範囲でのことは言われる必要がある。どこかに境界はあるはずである。だが、ある領域から言葉がはいれない世界へと移行していく、ということは、あらかじめ確認しておく必要がある。

 OSHO-ZENは、その言いえない領域へとたどる道筋だ。だから、どこかで言葉は途絶える。しかし、途絶えるところまでは、限りなく十分に語られなければならない。そのためのギリギリの領域で語られているのが、この本「禅宣言」であろう。あるいは、英語版「Zen Manifest」のほうが、より生にちかいだろう。そして、オーディオテープやビディオのほうが、さらに生に迫っているだろう。しかし、もちろん、そんなことでは十分ではない。

 まぁ、しかし、ターゲットは一気に絞り切れるものではない。フォーカシングはそれなりのプロセスの中でやっていこうではないか。

 先日フリッチョフ・カプラについてお話がありましたが、超個(トランスパーソナル)心理学についてもお話いただけないでしょうか--とくにスペクトラム心理学の創始者と言われる、ケン・ウィルバーの業績と瞑想について。
 どうしてそういった人々はここに来ないのでしょう。すっかり大家になってしまって、外に出られないのでしょうか。あなたのビジョンとその実際的な成果が、障害となっているのでしょうか。
 

 
まず第一に理解すべきは、私は心理学は扱っていないということだ。心理学はマインドに結び付いたままだ----それはマインドの科学だ。そして私の仕事というのは、あなたをマインドの外に連れ出すことだ。だからこうした人々は、きっと私のことを敵のように思うだろう。彼らが探っているのは、マインドの機能の仕方---それが個人のもの(パーソナル)であろうと、人と人の間のもの(インターパーソナル)であろうと---であり、その条件付けとは何か、そしてそうした条件づけをどうやって新しい条件づけによって置き換えるか、といったことだ。彼らの仕事は、それがインターパーソナル心理学と呼ばれようがスペクトラム心理学と呼ばれようが、マインドに閉じ込められたままだ。そして私の世界、禅の世界は、ノー・マインドの世界だ。

 マインドが何世紀も抱えてきたごみくずを相手にしても、しかたない。それに巻き込まれてしまったら、それをどこまで掘り続けていっても、見つかるのはガラクタばかりだ。一思いにそこから飛び出したほうがいい---それはあなたではない。世代から世代に伝わる条件づけが、そっくりそこにある。様々な観念がみんなあなたのところまでやって来て、日毎に厚くなっていく。時間が経つにつれて、あなたのマインドは厚くなり、瞑想するのは難しくなる。

 こうした人々は、瞑想に全然かかわっていない。だからここに来るはずもない。第2に、自分たちは答えを見つけたと思っている。当然、答えを見つけたと思っている人は、もうほかの場所に真理を探し続けたりせず、自分自身の想像の中にとどまる。

 マインドというものは、心像や、思考や、感情や、気分以上のものではけっしてない。マインドはあなたの本性ではなく、社会によってあなたの無垢の上に押し付けられたものだ。

 こうした人々は、ここに来たら当惑するだろう。なぜなら自分たちのしてきたことすべて、集めてきたものすべてを、私たちは投げ捨てているからだ。

 もしやって来たら、もっと集めるものが山ほどあるだろう---毎晩たいへんなごみくずが捨てられる。それを集めて分析を楽しめばいい。

 完全に精神分析された人間は、この世にひとりもいない。過去に向かうと、その深さはたいへんだ。10年、15年と人々は精神分析を受け、そしてずっとしゃべり続ける---いろいろ新しい夢や、新しい考えが現れ、それがどんどん続いていく。その精神分析家に飽き飽きしたら、別の精神分析医に変え、またもや同じ物語を別の名前で繰り返す。

 しかし精神分析家も気づいていないのだが、あなたの実在は、あなたの小さなマインドをはるかに超えるものだ。

 科学は物質の中に閉じ込められている。

 心理学はマインドの中に閉じ込められている。

 瞑想とは、「物質」を扱う生理学を超え、「マインド」を扱う心理学を超え、生と意識の源泉をみつけようとする。

 ここでの仕事はまったく違っている。違うばかりではなく、いろんな学派のいわゆる心理学者たちの仕事すべてを無意味にする。そういう仕事は不毛な作業だ。OSHO「禅宣言」p458

 心理学やトランスパーソナルという概念は極めて魅力的で、ああ、ここで、いいんではないか、と私たちにひとときの安心感を与えることがある。

 しかしOSHO-ZENは、そこを断つ。

 そこは到達点ではない。

<10>につづく

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和尚、禅を語る <3>

<2>よりつづく
和尚、禅を語る
「和尚、禅を語る」 <3>
玉川信明 2002/02 社会評論社 単行本 263p
★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆

 玉川信明のOshoシリーズ全4冊のうちの「和尚(ラジニーシ)の超宗教的世界」に続く、第2弾。当ブログはこれから徐々にOSHO-ZENへと戻る。その前にかたづけておかなければならない一冊。しかしながら、それほどかたづけは面倒くさくない。

 この本はおかしい。最初からそう感じている。ましてや、Osho翻訳者の一人であるmonju氏からは次のような言葉が寄せられている。 

 この一連の玉川本は、OSHOのことばだけじゃなくて、ぼくがあとがきなどに書いた文章などもそのままそっくり何のことわりも、但し書きもなく、無断で使われているから、まったくとんでもない本だと思う。ひとの思考と自分の思考とがまぜこぜになって何がなんだかわからなくなってしまっているような不快感を感じるだけです。monju(2010.02.26 12:15:26)

 もともとコピーレフトという考え方に賛成で、著作権などには、わりとユルい感覚しかもっていない当ブログではあるが、自らの反省も含め、この本については、厳しい態度にのぞむべきだと思う。すくなくともこの本を出した社会評論社の関係者に強く抗議しておきたい。著者(引用者)はすでにこの世にないので、責めようがないが、それでも、彼自身の精神性のために、あえて、ここにそのことを明記しておく。残り2冊についても、納得ができるまでは、当ブログでは触れないことにする。

 もし、OSHO-ZENに関心ある向きは、このインターネット時代である。ただしい情報がたくさんあり、適切な翻訳がたくさんでているので、そちらを利用されたい。ものごとは、かなり微妙な領域に入っている。

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インテグラル・スピリチュアリティ <5>

<4>よりつづく
インテグラル・スピリチュアリティ
「インテグラル・スピリチュアリティ」<5>
ケン・ウィルバー /松永太郎 春秋社 2008年02月サイズ: 単行本 ページ数: 469p

 せっかくチダ氏より、「付録」から読むというアイディアをもらったので、さっそくその手を試してみた。これがなかなかいけるのである。実際、ウィルバーの著作も読めないものでもない。しかし、読みながら、だからどうした、という開き直りがどうしてもでてくる。

 ウィルバーのやり方は、レヴィ=ストロースのようにその地に立って具体例を集めるというものではなく、基本的には図書から収集され得る情報がもとになっている。だから、どんなに難解そうに見えたとしても、結局は、ひとつひとつを埋めていけば、自然とウィルバーが言わんとしていることが分かってくる、ということになる。

 だから、これだけインターネットが普及して、図書館ネットワークも活用できる状態にあるのだから、ひとつひとつをしらみつぶしに読書していくとするならば、できないことはない。彼のやっていることは誰にでもできる、ということになる。

 しかし、それが一体なんだ、というのか。採集し、収集した情報の中に、重要で、スピリチュアルなものがたくさんあったとして、そしてその分類法に何事かの工夫があったとして、それが一体なんだ、というのだろうか。たしかに、ニューエイジやアメリカン・ポップのような軽いノリに対するアンチテーゼであったとして、すべての構造のなかのあらゆるポイントにひとつひとつの情報をあてはめ得たとしても、それは一体なになのか。

 ウィルバーのインテグラル・オペレーション・システム(IOS)とやらに対抗して、当ブログでは、なにやら湧いてきた図式を提示して防戦の構えを準備している。その図式は極めてシンプルだ。その図わずかに4つ。

1_4 この図式をまずは「O」と名づける。
問われるべきは「私は誰か」だ。
「私」という意識がある。
「私」という問いかけがある。すべてはここから始まると言ってもいい。
誕生であり、基本である。
始まりであり、全体である。「O」。
ゼロでもあり、オーでもいいだろう。丸でもいいだろう。
だが限りなく○くあってほしい。

2_4そして二番目。
これを「S」と名づける。
真ん中を見ているとなにやらSの字が見えるようにも思う。
問われているのは「どこに魂はあるか」。
魂のSoul。精神のspirit。
なにはともあれ、その頭文字の「S」。
場合によっては、sexのSでもいいだろう。
Sではなく8と見てもいいだろうし、∞と見ても差し支えはない。

3_2
三番目は「H」。これをHと名づけるには訳がある。
とにかくHでなくてはいけない。
問われているのは「How to Die」。
いかに死ぬか、である。
How から取って、Hでもいいだろうし、
よく見ると、中央に梯子が見えているから、
その形状からHを連想してもいいし、ハシゴの頭文字Hでもいい。
とにかく、これはHなのだ(もっといいコジツケを募集中)。
Photo
そして、最後はまた「○」になる。
これはもちろん「O」としか呼べない。
一つ目のOが誕生であったら、二つ目のOは死だ。
しかし、死は生へとつながっている。
再誕生だ。
円環の完結である。
これで最初のOからまたスタートする。ひとつのらせんのはじまりである。

 これらを横に並べると、

1_5 2_5 3_4Photo_2   

 となる。

 そして、さらに、これらの頭文字を並べると
 「O」--「S」--「H」--「O」となるであろう。
 つまり、ここで当ブログが何を言いたかったのかは、賢明なる読者諸君はすでにお気づきであるはずだ(爆)。なぜに3番目がHでなくてはならないか、ここで理由が完全に暴露されたのであーる(汗)。

 スワミ・パリトーショは意欲的な主著「21世紀への指導原理OSHO」の中で述べている。

 OSHOとはどういう名前なのだろう、と考えたことがある。 OSHOのイメージを胸の内に保ちながら、頭の中に浮かぶOSHOが好きな言葉を色々繋ぎ合わせているうちに、こんな組み合わせにたどりついた。 ”Orgasmic Silence of Hilarious Ocean" (陽気な海の歓喜に満ちた沈黙) これだ! 宇宙の中心を言いあててしまったようだ。多分、OSHOは文句を言わないと思う。 陽気な<意識>の海の、絶頂から絶頂へと続く永遠の沈黙<神秘>・・・。スワミ・パリトーショ「21世紀への指導原理OSHO」p460

 「陽気な海の歓喜に満ちた沈黙」。ふむふむ、なるほどね。それも悪くない。しかし、指導原理、オペレーション・システム、というほどの力動性がないのではないか。そこから何が生れてくるのか。ちょっと詩的過ぎて、いかにも芸術的なパリトーショらしい表現ではある。それにしても、すこしダジャレっぽくはないですかネ。

 それに比べれば、こうしてみると、当ブログのOS=「OSHO」、やっぱりお互い、ダジャレはかなりきついが、しかし、なかなか使えそうではあると思うのだが・・・・。ケン・ウィルバーのISOとやらに、この円環システムが入っていれば、彼がやっていることは正しい。円環システムをまだ見つけ得ていないとすれば、当ブログ自作OS「OSHO」のほうが一分のリードしている可能性がある、ということになる(笑)。

<6>つづく  

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