カテゴリー「40)One Earth One Humanity」の106件の記事

2010/06/21

2010年上半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10

2009年下半期よりつづく

2010年上半期に当ブログが読んだ
新刊本ベスト10 

(それぞれの本のタイトルをクリックすると、当ブログが書いたそれぞれの本の感想に飛びます)

第1位
Photo_2
「精神の哲学・肉体の哲学 形而上学的思考から自然的思考へ
木田元 /計見一雄 2010/03  講談社 単行本  333p 

第2位
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「はじめてのチベット密教美術」 
正木晃 2009/12 春秋社 単行本 126p 

第3位
B3

「1Q84 BOOK3」
村上春樹 2010/4 新潮社 単行本  602p 

第4位
Rama

「ダライ・ラマ 実践の書」
ダライ・ラマ(14世) /ジェフリー・ホプキンス 宮坂宥洪 2010/01 春秋社 単行本 225p 

第5位
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「多次元に生きる」 
人間の可能性を求めて
オルダス・レナード・ハクスリー/片桐ユズル 2010/02 コスモス・ライブラリー/星雲社 単行本 192p 

第6位
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「現代瞑想論」 変性意識がひらく世界
葛西賢太 2010/03 春秋社 単行本 265p

第7位
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「随(かんながら)神」 ―意識の扉を開く鍵―
阿部敏郎 (著)  2010/5 ナチュラルスピリット 単行本: 280p 

第8位
O

「オウムを生きて」
 元信者たちの地下鉄サリン事件から15年
青木由美子 2010/03 サイゾー 単行本 319p

第9位
B2

「1Q84スタディーズ(book2)」
Murakami Haruki study books 2010/01 若草書房 全書・双書 ページ数: 275p 

第10位
Rei

「現代霊性論」
内田樹 /釈徹宗 2010年02月 講談社 単行本 300p  

次点
Kato

「加藤和彦ラスト・メッセージ」
加藤和彦 /松木直也 2009/12 文藝春秋 単行本 188p

 

2010年下半期へつづく

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2010/06/20

Books I Have Loved<78>

<77>よりつづく

Books_i_have_loved_2
Books I Have Loved <78> 
OSHO 1985/07 Rajneesh Foundation Intional  247p ペーパーバック 言語 英語

BIHL1 + BIHL2 再読モードのまとめ

 さて、大雑把にBIHLのピックアップをひととおり終えて、BIHLを1から順に良い進めようとしたところ、当然のことながら、自らの読み方のいかに不十分なのかを痛感するに至り、1から2、そして3に行こうとした時、もんどりうって、1に戻らざるを得なかった。

 ここでようやく1を終えたところで、2に進むべきだが、2もまた実際には、3以下のリストに連なるタイトルが目白押しなので、どこで切る、というわけにもいかない。しかし、BIHL1~2は、偶然にも10+11=21と切りがよく、全体168タイトルのちょうど8分の1という分量になっている。

 168タイトルのうち、日本語として読めるのは120タイトル程度、残る40タイトル強は英語版に頼らざるを得ないし、さらに入手不能なタイトルも数冊含まれている。後半になれば、関連本や英語本のラッシュになることを考えてみれば、最初のこの21タイトルは、BIHLの全体像を推し量る上で、重要な21冊となる。

Bihl1221_2
 
 一気に読み進めるべきではない本もあり、関連の中でこそ読まれるべき本もある。敢えて文字面を追わず、その行間を読み進めるための本もあってみれば、ここで読了とも言えず、いずれ、三読、四読が必要になるであろう。

 しかし、ここで当ブログの「One Earth One Humanity」カテゴリも107に達し、残すは、明日の夏至に発表する「2010年上半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10」をアップすれば、108の定量に達することになる。この辺で、気分を切り替えて、カテゴリ名も「No Earth No Humanity」とし、Zen関連をもうすこし読み込もうと思う。

 BIHL1~2の21冊の「再読」を終えたところで(実はまだ終わってない)、ひととおりの感想をメモしておけば、ことはこの21冊で足りるのではないか、ということ。この21冊を読み切ることができれば、つまりBIHLの言わんとしていることは、十分届くのではないか。だから、今後168タイトルすべてを追うことはできなくても、この21タイトルを確認できたことだけでも、大いに喜び、大いに感謝すべきである。

<79>につづく

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2010/06/19

ミラレパの十万歌<3>

<2>よりつづく

Milarepa1
「ミラレパの十万歌」 チベット密教の至宝 <3>
ミラレパ おおえまさのり 1983/04 いちえんそう めるくまーる社 特装本 975p
☆☆☆☆☆

 チベット密教の至宝。BIHL1の尻がりを務めるのがこの本。一気に再読しようと思ったが、やっぱり無理だった。休み休み、小分けにしながら読み進めている。サラハ---ティロパ---ナロパ---マルパ---ミラレパ、というインドからチベット・タントラの系譜の中で、ミラレパの系譜はここで途切れたかのように、Osho講話の中ではあまり語られない。

 それはチベットにおいて、政教一体となったチベット密教があまりに組織化し、システマティックになってしまったことへの違和感であろうか。あくまで個人へ焦点を集めようとするOshoのレクチャーの題材としては、適さなくなっていったからでもあろう。

 当ブログも、読書ブログとしては、すでに公立図書館の一般開架図書として読めるようなチベット本にはたいがい目を通した。ごく最近の新刊本や希少本、あるいは奥伝などの、一般には入手不可能な本までは、おっかけ切れない。それでも、読書としてのチベットは、一応、ひととおり終わってしまっている、と言っていい。

 すでに、チベット本については、ターゲットを3つに絞って、再開のタイミングを待っているところだが、あの3つに加えて、当ブログの不確定要素である「アガルタ探検隊」的視点からのチベットも今だに魅力満載である。

 ミラレパについては、「チベットの偉大なヨギー ミラレパ」の普及版の発行はされているものの、こちらの「ミラレパの十万歌」のほうの普及版邦訳はまだなさそうだ。もともと蔵書として持っていたから読めるものの、一般にはなかなか読書は難しい一冊となる。ただ、この二冊はセットとして読まれてこそ意義が深まると思うのだが。

 BIHL1における「預言者」たちの前半が、ツァラトゥストラや、ゾシマ長老、大審問官、ミルダッド、ジョナサン、という、文学上のフィクションとして語られているのに対し、ミラレパは実在の存在である。歴史や伝統の中で虚飾を重ねられてきたことは推測できるにしても、老荘、キリスト、クリシュナに比べたら、はるかに近世に近い時代の存在だし、残された「預言」の数々も意義深く、数多い。

 それからミラレパはレーチェンに言った。
「おまえは弟子に教えるのが上手だ。この娘の面倒を見なさい」
 レーチェンマはレーチェンに手渡され、かれは彼女をしばらくの間、修行の同伴者とした。その後、レーチェンマは北のナムツォチュクモのセモドで瞑想するために出かけ、そこで八年の間、完全な沈黙を守った。ついに彼女は十の経験と八つの功徳を得、すべての精神的浄化の道の現成を完成した。そしてこの生涯において、ダーキニーの浄土に行ったのである。

 これはミラレパがジョロ・ディツァムの小五湖で、かれの<最も優れた>四人の女弟子の一人、レーチェンマに会う物語である。
p388

 「かもめのジョナサン」の解説で五木寛之が女性の存在が感じられないという危惧を表明し、ヘッセの「シッダルダ」の二部では「同伴者」カマラーが途上することを思い出す時、中世チベットのヨーギ達のタントラ修行とはいかなるものであったのかと、想いははるかヒマラヤ奥地へと飛翔する。

つづく・・・・・

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2010/06/18

バガヴァッド・ギーター<8>

<7>よりつづく 

バガヴァッド・ギーター
「バガヴァッド・ギーター」 <8>
鎧淳 2008/03 講談社  文庫 275p
☆☆☆☆

 BIHLにおける8冊目。バガヴァッド・ギーターとの共振はすこしづづではあるが、次第に深まっていると言える。その全景、その背景、そのストーリー、登場人物たち、言葉、コンセプト、神、人、神話群。一気になじんで、その全体を理解するというわけにはいかない。それでも、何度か読み返していくと、すこしづつ、こちらの身体となじみ始め、共振し始めるのが分かる。

 一体に、インドの物語を日本語で味わう、ということ自体、どこかお手軽すぎるのではないだろうか。日本語でインドの物語を、というと、どうしても、仏教的な背景や用語が、ごく当たり前のように連想され、あるいは登場してくる。これはこんなものだろう、というお手軽な理解が先行しているのではないか。

 「古池や 蛙飛び込む 水の音」 という、日本人にとってはごく当たり前の芭蕉の俳句だが、これを翻訳するとなると、ただごとではない。

The old mere! A frog jumping in The sound of water 正岡子規

An old pond A frog jumps in A splash of water. 新渡戸稲造

The old pond, ah! A frog jumps in: The water's sound. 鈴木大拙

Old pond Frogs jumped in Sound of water 小泉八雲(ラフカディオ=ハーン)

The old pond, Aye! and the sound of a frog leaping into the water バジル=チェンバレン

The ancient pond A frog leaps in The sound of the water. ドナルド=キーン

The old pond. A frog jumps in Plop! レジナルド=ホーラス=ブライス  「ちょんまげ英語塾」からの引用

 いずれが正しいということでもないだろうが、これらの英語に振り回される英語読者の気持ちも分からないではない。

 インド人ならざる日本人が、インドの最大の古典バガヴァッド・ギーターの、その片鱗だけでも味わうことができることを喜ぶことができれば、それでいいのか・・・もしれない。ただ、やはり気になるのは、この鎧淳訳は、どうしても中国から輸入された仏教文化の概念を多く借りているような雰囲気のところである。

 あのインドの大地にいて、あの灼熱の太陽のもとで、インドの言葉で、そしてインド人として、このバガヴァッド・ギーターを味わう、となれば、その翻訳に尽力された方々の御苦労には大いに感謝するとしても、まったく別な味わいになるのではないか、と、強い疑念を持つ。

 「バガヴァッド・ギーター」のテキストにも多くのヴァージョンがある。どのテキストを選び出すか、というのも、一読書人としての、大いなる楽しみではあるが、その前に、もっともっと大事なことは、限りなくオープンな態度で、この大いなる叙事詩の前に立ってみることである。

 

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ミルダッドの書―灯台にして港<3>

<2>よりつづく

Photo
「ミルダッドの書」―灯台にして港 <3>
ミハイル・ナイーミ (著), 小森 健太郎 (翻訳) 1992/12 壮神社 単行本: 347p
☆☆☆☆☆

 IBIHL1にリストアップされた10冊の本の存在を確認し、いくつかのヴァージョンからもっともお手頃そうな本を選び出し、一度はページをめくって見、時にはきちんと読み、それでもうまく入ってこない時は、日をおいて、もう一度、最初からめくって見る。そして、最初の行からその本に入って行けば行くほど、ますます分からなくなることが多い。

 「ミルダッドの書」も、その存在を確認し、一冊の本として読む分には何の苦もないのだが、その背景を考え、しかも、その本を、あのOshoが、なんと「ツァラトゥストラ」、「カラマーゾフ」に次ぐ、第3冊目にリストアップしていることを考えると、すわ、何事ぞ!と浮足だってしまうことになる。

 英語圏は知らず、すくなくとも日本語圏における、このミハイル・ナイーミの他のアラビア語作品の紹介は他にほとんどない。解説などで想像をたくましくするだけだが、その分だけ、この「ミルダッドの書」をためすがえす読みなおしてみることになる。

 ここまでの3冊にでてくる、ツァラトゥストラと、例えば大審問官やゾシマ長老、そしてこのミルダッド、という預言者を出された時に、BIHL読書愛好会としては、自然にその共通項を見つけ出そうとする。

 文字を中心とした「小説」という設定で、そこに「預言者」が登場し、ストーリーもそこそこに、預言者の姿を借りた作家自身の思想とも言える「箴言」が朗々と歌われる。このスタイルが存在し、このドラマツルギーの中で、作家たちがそれぞれに工夫していることもわかった。

 ジョナサン、ミラレパ、クリシュナ、老子、荘子、イエス、思えばBIHLに登場してくる「預言者」たちのスタイルにはかなりの共通項がある。だから、それらのスタイルのひとつひとつの小さな違いを比較しながら、楽しむことは、そう簡単ではなさそうだ。ひきつづくアルムスタファーや列子、ソクラテス、ボーディダルマ、などなど、彼らとて、そのスタイルの中の別ヴァージョンと理解すれば、飲み込みも速い、というものだ。

 さて、その「箴言」の内容だ。そそっかしい足早の一読者として、その文言に一度は視線を向け、その凹凸を確かめ、目立った個所に付箋を貼って、さて、お次は、と次なる本に手を出し続ける。このようなスタイルでは、「箴言」の中に並べられた、ひとつひとつの「預言」の十分な理解には至らない。

 あせらずに、時間をはかって、何度か文字列を追っているうちに、自然と全体像が見えてきて、微妙な味わいが分かってくるかもしれない。そう思い直して、立ち止まる。

 それゆえ、人間もまた、この聖なる三位一体、すなわち、意識、言葉、理解の三位一体である。人間もまた、神と同様に創造者である。人間の<私>は、人間の創造物である。それではなぜ、人間は神のようにバランスを持ちえていないのか?
 もしこの謎の解答を知りたいのならば、ミルダッドがこれから明かすことをよく聞きなさい。
p069「聖なる三位一体と完全なるバランス」

 それぞれの預言者たちの箴言がまったく同じな筈はなく、また表現方法も違う。BIHLを読み進めるにあたっては、一体、この辺をどう対処すればいいのか。いくつもの預言者たちをリストアップし、そこから、一番自分にあった預言者をピックアップして、その中のさらにお気に入りのアフォリズムをメモして壁にでも張っておけばそれでいい、のか。そんなはずはない。

 むしろここでは、それらの預言者たちの共通項を求め、さらには微妙な違いを感知し、味わい分けて行けるほどの感性を養っていくことのほうが大事だろう。そして、比較検討する、というより、それらの外在する預言者たちの言動に感応する部分としての、自らのうちなる「意識」を見続けていくことのほうが大事になってくる。

 Oshoは10万冊以上の本を読んだそうだが、そこには特に目的はなく、単に楽しみのため、と言っている。リナックスの基礎を一人で造った、リーナス・トーバルスの著書のタイトルを思い出す。「Just for Fun」それが僕には楽しかったから・・・。

 預言者たちの箴言の中に隠された思想や哲学、それを理解し、比較検討し、体系づけるなどということは土台無理な話であり、当ブログのもともとの趣旨にも大いに反している。むしろ、その読書の中で見つめられるべきものは、外在者としての預言者や箴言の数々ではない。見つめられるべきものは、内在者としての自らの意識だ。

 もし読書の過程において、そのような現象が起きたらもうけもの。今後はそのような姿勢を保つことで、よりスムーズに、そしてトータルにBIHLを楽しんでいけるのではないか、と思う。One Earth One HUmanityのカテゴリ名の元、読み進めてきたBIHLではあるが、そこに無理な「Oneness」を作り上げてしまうとしたら、当ブログの最初の趣旨に反することになる。そういう意味では「インテグラル」な方向に行こう、と思っているわけではない。

 まもなく終わるこのカテゴリ名に次いで、次なるカテゴリ名は「No Earth No Humanity」とすることにした。Onenessではなく、Nothingnessへと向かう読書路である。問われるべきは書物の在り処や、作家の人生、箴言に隠された思想や哲学ではない。問われるべきは私自身であり、「私」のNothingnessである。その道筋において、これらのBIHLの本たちが大いに役立ってくれることを、今後も期待したい。

 この地球が人間の住処であると同じくらい、明けの明星、銀河、昴星も人間の住処である。これらの星々は、光を人間の眼に投げかけるたびに、人間をおのれのところへ持ち上げている。人間はこれらの星々の下を通るたびに、これらの星々を自分のところへ引き寄せている。

 あらゆる事物が人間の中に組み込まれている。その代わり、人間はあらゆる事物の中に組み込まれている。宇宙はたった一つの体である。その最小の部分と交流すれば、すべてと交流したことになる。p167「私たちは死後どこに行くのか」

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2010/06/17

『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する<5>

<4>よりつづく 
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する <5>
亀山郁夫 2007/09 光文社 新書 277p
☆☆☆☆

 BIHL1を再読するにあたって、その二冊目に挙げられているドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は、ぜひここにおいても再読したいところである。ところが、昨年苦労して読み終わったところなので、今回また全部読みなおすという余裕は残っていない。

 「クラウドソーシング」カテゴリの「再読したいこの3+1冊」では、村上春樹本をリストアップしておいた。この4冊を再読することがあったら、かならずテーマを決めて拾い読みしたい。まずは車、特にロードスターについてのところを一通り読んでみたい。そして、もう一つは、村上自身が目標としているドストエフスキーのこの小説「カラマーゾフの兄弟」に関するくだりだ。

 あるいは、あの今東光も、「カラマーゾフの兄弟」のような小説を書きたい、と言っていた。なにをして、この小説は、このように多くの小説家をも魅了するのだろう。小説が苦手であり、ブログのテーマとしてもいまいちフィットしないのではないか、と思っている当ブログではあるが、次第に、小説の面白さに気付かされてきているところがある。

 しかるにあの「1Q84」の、book1、2、はまだしも、そのbook3には納得いかない。自分の書き込みを見ていてもbook3にはかなり期待していたのは確かである。だが、現在は、裏切られたような気分でいる。「続編」book4は出るのか、出るとすればどういう内容になるのか。

 まぁ、それはしかし、なにも一人村上春樹に期待する必要はない。その「続編」は自分が書けばいいのだ。期待が大きければ大きいほど、その存在価値を認めれば認めるほど、あとは自分が書けばいいのだ。自分でやれる範囲で続編を空想してみるのも悪くない。

 それはなにもドストエフスキーに限らず、ニーチェであったり、ウスペンスキーであったり、ジブランや、トルストイや、クリシュナムルティや、村上春樹やらであっても同じこと。あれやこれやに期待し続ける、ということ自体、ちょっとおかしい。あとは自分が書けばいいのだ。

 なにも何とか賞を取る必要もないし、世界的なポピュラリティを獲得する必要もない。自分が自分の小説、自分のアートを仕上げれば、それでいいのだ。それがエンターテイメントに徹していなくても、表現として、まったく未熟なものであっても、自らが自らに与える書としてなら、それは別に「イーシャ・ウパニシャッド」のように全体的でかつ完全というものではなくても、それはそれでいいのだ。Do It Yourself。自燈明。

 まずは、そう言ってはおくが、ボールを蹴ることができるが、誰もがサッカーをゲームとしてやれる訳ではない。サッカーをやれるとしても試合にでれる選手になれるわけではない。ましてやワールドカップに出るようなプレイヤーになることなど、一般的には夢でしかない。そして、そのプレイヤーの華麗なるプレイに見とれる、ということも、私のようなごく一般人には残されている楽しみなのだ。

 相撲でもボクシングでも、将棋でも、歌やアートでも、ずば抜けたセンス、ずば抜けた表現はある。それらを楽しむことは、大いにありうることである。誰もが世界に冠たる小説家になれるわけでもないし、何百万部の発行部数を誇るベストセラー作家になれるわけではない。優れた人々に、優れた仕事を期待するのは、ごく自然な現象だ。

 なにはともあれ、当ブログは、いつのまにか、小説を「読まされて」いる。そして、それらはどうやら「面白い」。BIHLにおいて、Oshoはドストエフスキーの作品をもうひとつ「地下室の手記」を取り上げている。トルストイは3冊。その他、数十の小説群がそのリストにアップされている。初読時にはその本の存在を確認するだけにとどまったものがほとんどである。再読モードの今回は、出来得るかぎり、少し読むスピードをペースダウンしながら、味読する方向に持っていきたい。

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イーシャ・ウパニシャッド 存在の鼓動<2>

<1>からつづく

イーシャ・ウパニシャッド
「イーシャ・ウパニシャッド」 存在の鼓動<2>
OSHO/スワミ・ボーディ・マニッシュ 1998/07 市民出版社 単行本 461p
Vol.3 No.0059☆☆☆☆

 マスターの講話録ではあるが、この本をいままであまり読んだことがない。もっと言えば、相性が良くないとさえ言える。何故なんだろう、と、あらためて考えてみる。一つには、邦訳が発行された年代。1998年7月と言えば、おおきな社会問題の方が先行しており、精神世界の本などを読んでいる余裕がなかったこと。

 二つ目には、この本の講話録がもともと70年前後のインドで行われた瞑想キャンプでの講話録が基本になっていること。1990年にOshoが肉体を離れた後は、最後のZENシリーズが自分の基本的な指向ベースになっており、インドのアチャリア時代の講話録が先行して翻訳されていくことに不満を持っていたこと。

 三つめには、自分自身は、愛と瞑想の道の二つの、どちらの道を選ぶのか、と言った場合、瞑想を選ぶ、というタイプの人間ではなかったこと。つまりは、瞑想という言葉を口に出してはみるものの、決して、瞑想がお得意の人間ではなかった。

 この三つの障害は、2010年の現在、少しづつではあるが、ゆるやかに解除されている。ひとつ目の時代的背景であるが、かのいまわしい事件から15年がたち、生々しい傷口はふさがることはないが、あれ以降、拡大傾向になく、絶体絶命なるデッドエンドに突っ込んでしまったわけではなかったこと。あの時代を見つめるのに10年以上かかったけど、振り返る余裕はできた、ということ。

 二つ目には、私自身が、もともと「瞑想」という単語には惹かれていたとは言うものの、Oshoのもとに辿り着いたのはカウンタカルチャーの正当な受け皿としてのその存在価値が大きく左右していた。だから、インドで光明をうけたOshoがジャイナな人々の支持をうけるアチャリアという存在であったことを、どうも受け入れがたかったこと。そして、それが私にも加齢現象があり、次第に視野は開かれ、インドにおける仏教ならぬ、ウパニシャッド哲学の価値観に強く惹かれ始まったこと。

 三つ目には、やはり、私自身においては、瞑想=ZEN、としてもらうことのほうが一番受け入れやすいのだが、それは、もともとが、今回の自分は日本に生れ、禅を理解するに近道な環境に生れてたからこそと言える。だから、実は、そこには、新たなる大きな落とし穴もあるということ。

 全体的であり、かつ中心にいることが、Oshoの基本であるとすれば、禅からZENへと移動することは、ある意味、安易なショートカットになるかもしれない、という危険性がある。最終地点はどこにあろうと、ここはスーフィだとか、ウパニシャッドとか、ハシディズムであるとか、グノーシスであるとか、さまざまな流れに身を浸しておくことも重要であろう。

 だから、決して得意ではないが、今「イーシャ・ウパ二シャッド」を読み始めるとしたら、それはそれで、ちょうどその時なのだろうと、ひとりで合点する。どの道をいこうと、全体的であり、完全なものであるとするならば、ウパニシャッドははずすことはできない。

 Oshoが採用しているテキストには、佐保田鶴治・訳の「イーシャ・ウパニシャッド」に出てこない二つの詩句がある。最後と最後だ。あとの18の詩句は、翻訳や解釈、表現の度合いの違いはあれど、同じ地平を指している。

 佐保田訳は、このまま読んでしまえば、それで素晴らしい世界観である。しかし、同じところをOsho採用のテキストと比較すると、また雰囲気が違ったものになる。二つ並べないと、気がつかないことがある。また、テキストを離れたところでの、Oshoの「存在の鼓動」が聞こえてくるところも、微妙な味わいとなる。

OM(オーム)

あれも全体 これも全体

全体より生ずるは 常に全体だからである

全体より全体を取り出すとも

見よ 残るは全体である

OM(オーム) 安らぎよ 安らぎよ 安らぎよ   p12

 これが、佐保田訳にはない前振りの部分。そして・・・

OM(オーム)

あれも完全 これも完全

完全なるものより生ずるは常に完全だからである

完全なるものより完全なるものを取り出すとも

見よ 残るは完全である

OM(オーム) 安らぎよ 安らぎよ 安らぎよ   p426

 と、同じ調子ではあるが、前振りでは「全体」であったものが、締めでは「完全」、あるいは「完全なるもの」となっている。もう、ここまで言われると、あとは手が出ない。ただただ、涙して、服するのみだ。

<3>につづく

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イーシャ・ウパニシャッド<3>

<2>よりつづく

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「ウパニシャッド」 <3>
佐保田 鶴治 1979/01 平河出版社 単行本: 385p
★★★★☆ 

「イーシャ・ウパニシャッド」 

 「BIHL2」の8番目。ハガキの片面に書き込めるほどの、一番小さなウパニシャッド、108あるウパニシャッドの中にあって、最大の世界を持つ、最小のウパニシャッドと言われる、インド哲学の原点。ハガキの片面には書き込めないと思うけど、レター1枚のスペースがあれば、十分書き込める。

 Osho講話「イーシャ・ウパニシャッド」に引用されている訳文と、こちらの佐保田訳には、当然のごとく違いがあるが、短いので、ひとつひとつ比較検討することは可能であろう。佐保田訳は18編の詩句から成っており、Osho引用のものは20編となっている。しかし、それも最初と最後のカバーがついて、18編+2編だから、同じものを指していっていることは間違いない。

 さて、このカバーが曲者で、むしろ佐保田訳でなぜか省略されている二枚のカバーこそがもっとも重要と言えるかもしれない。Osho講話「イーシャ・ウパニシャッド」は別途読み進めるとして、「BIHL2」の一角にしっかりとその存在位置をしめているこの小さなウパニシャッドの佐保田訳を転記しておく。

 イーシャ・ウパニシャッド(一名イーシャーヴァーシャ・ウパニシャッド)

 主への献身

<1>およそ地上に動めく万づの有生は生の宿りたもう所となるべし。一たびはこれを(有生)を遠離し、そしてこれを享受せよ。ゆめ他人の財を貪るなかれ。

 祭祀

<2>この世にありては、業(祭祀)をなしつつ、百年の寿を願うべし。かくの如く、汝にあっては他の道なきなり。業はかかる器量人には染着せず。

 自我の観照

<3>ここにそこばくの世界ありて、無日(アスーリア)と名づけられ、盲闇もて覆われてあり。すべて自我を殺せる輩はこれら盲闇の世界に赴く。

<4>この独一なるものは不動なり。されど、意よりも迅くして、前に走れば神々もこれに及ぶ能わず。自らは停りつつ、しかも他の馳せゆくものを追い過ぐ。これの中にマータリシヴァンは諸活機を置く。

<5>こは動き、しかも動かず。こは遠くに在り、しかも近くに在り。こは万有の内に在り、しかも万有の外にあり。

<6>人もし自我において万有を観じ、万有の上に自我を観せば、それより後は世に畏るるものなからん。

<7>智者にあって万物その自我に帰せし時、かかる万物一体の理を観ぜし人に如何なる迷かあらむ? 如何なる憂かあらむ?

<8>彼は純白、無体、無疵、無筋、清浄にして罪垢に汚されざるものに到達せり。彼は賢者なり、智者なり、主宰者なり、自在者なり。彼は永恒の歳時のために適宜に庶物を配置せり。

 中庸の道

<9>無明(無知)を崇信する輩はもとより盲闇に沈むも、明(知)を欣(よろこ)ぶ輩はさらに深き盲闇に沈むと見ゆ。

<10>明とも異なり、無明とも異なるものといえり。かく賢者達がわれらに説きわけしをわれらは聞けり。

<11>明と無明とを併せて同時に知る者は、無明を以て死を越え、明を以て不死に達す。

<12>無生を崇信する輩はもとより盲闇に沈むも、生を欣(よろこ)ぶ輩はさらに深き盲闇に沈むと見ゆ。

<13>生とも異なり、無生とも異なるものといえり。かく賢者達がわれらに説きわけしをわれらは聞けり。

<14>生と滅とを併せて同時に知る者は、滅を以て死を越え、生を以て不死に達す。

 臨終祈念

<15>黄金の鉢(太陽)もて真有(サティア・梵)の面は掩われたり。そを闘(ひら)け、プーシャン神(道祖神)よ。有真を奉ずるわがそを見んがため。

<16>プーシャン神よ、独一仙よ、ヤーマ(夜摩)神よ、日神よ、生主神の後胤よ、汝の光明を撒布したまえ。光炎を収めよ。汝のいとも美わしき形色を我は今ぞ見る。彼方なる神人(プルシア)は即ち我にぞありける。

<17>風(気息)は不死の風に帰し、肉体は終に灰となる。
    唵(オーム)! 意志(クラトウ)よ、憶念せよ。所為を憶念せよ。
    意志よ、憶念せよ。所為を憶念せよ。

<18>火神よ、坦路によりて、われらを福祉へ導きたまえ。
    汝はよろずの道を知りたもう神。
    歪(ま)がれる罪をわれらより攘(はら)いたまえ。
    われらは汝に至高の賛辞を呈せん。
 p211

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2010/06/16

ツァラトゥストラはこう語った<10>

<9>からつづく

ニーチェ全集 第2期第1巻 
「ツァラトゥストラはこう語った」 「ニーチェ全集 」第2期第1巻
ニーチェ (著), 薗田 宗人 (編さん) 1982/11 白水社536p 
Vol.3 No.0058☆☆☆☆☆

 白水社「ニーチェ全集」の薗田訳の「ツァラトゥストラ」が優れている点は、まず、一冊にまとまっていること。「ツァラトゥストラ」というと、いつも二冊分冊で、上下とか1、2とかに分かれているので、もう、それだけで重苦しい。大変難解な本を今から読み始めるのですよ、しかも、2冊ありますよ、と最初から宣言されているようで、なんだかうっとうしい。

 この辺は、いつも3部作だと思っていた「カラマーゾフの兄弟」が、亀山新訳では5冊分冊になったのとは対極に思える。ドストエフスキーのほうは、あの込み入ったストーリーが、小分けにされることによって、逆に読みやすくなっている。

 「ツァラトゥストラ」はもともと3部作として一気に書かれ、後に別な作品として書かれた部分が、第4部として追加された、という経過がある。だから、もともと、構成も、それぞれに反発しあうような部分があり、それをむしろ、最初からひとまとめにしてもらうと、ようやく、落ち着きがでてくるというものである。

 実際、含味熟読してからでなければ言えないが、直感的に言えば、私は第4部が一番好きかもしれない。人によっては、あの部分が余計だとか、堕落しているだとか、いう評価もあるらしい。

 「ツァラトゥストラ」の邦訳は、登張竹風の部分訳「如是経(一名 光炎菩薩大獅子吼経)序品」(大正10年)以来、すでに十種ばかりあり、そのそれぞれに個性豊かな成果は、すでにひとつの翻訳史を形づくっている。p535 「訳注」薗田

 ブふ・・・・、「如是経(一名 光炎菩薩大獅子吼経)序品」!!!! これはすごい! 「如是経」ですか。なるほど、こう言った、だ。 一名 光炎菩薩大獅子吼経・・・・・、これまたすごい、なんせ、「一名」です。「光炎菩薩」であります。「大--獅子吼--経」でありますかぁ~~。いやぁ、言えてる。その「序品」ですね。「ツァラトゥストラかく語りき」なんて軟弱な訳語がぶっ飛んでいく。

 同じ時代背景のなかで大正14年に、今武平がJ・クリシュナムルティの「大師のみ足のもとに」(At the Feet of the Master)を翻訳して、「阿羅漢道」と名付けたのも、この時代ならではのセンスである。西洋がどうしてもキリスト教風土から抜け切れないでいたのと同じように、日本もまた、仏教的風土を借りなければ、精神性を語れなかった、ということなのだろう。

 さらにこの薗田訳が優れている点としては、もちろん、やわらかい読み下し文であることでもあるが、傍点や太字体が、どうやら最小限に抑えられていること。ないこともないが、心地いい程度にしか傍点や太字体がない。小山修一訳「ツァラトゥストラ」は、出版がもっとも新しいだけに、言葉使いももっとも現代的ではあるが、太字体が特に目立って、目ざわりではあった。

 当ブログでは、これで4種の「ツァラトゥストラ」に触ったことになる。なるほど、それほど変わるまい、とタカをくくっていたのだが、ここまでくると、同じ小説を読むにしても、テキストの選び方で、大変感じの違うものになることが、よくわかった。

 どれが定番ということもないのだから、それぞれ個性があっていい。機会が許すなら、これらをずらっと並べて比較検討しながら、すこしづつ読み進めるというのも醍醐味のある読書ではあろう。

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ツァラトゥストラ<9>

<8>からつづく

ツァラトゥストラ〈1〉 (中公クラシックス) ツァラトゥストラ〈2〉 (中公クラシックス)
「ツァラトゥストラ〈1〉」  2〉」 <9>
F.W. ニーチェ (著), Friedrich Wilhelm Nietzsche (原著), 手塚 富雄 (翻訳) 2002/04 中央公論新社 (中公クラシックス) 新書: 313p 407p
Vol.3 No.0056~57☆☆☆☆☆

 確かに1953年の竹山道雄訳よりははるかに読みやすいのだけれども、2002年の小山修一訳を読んでしまえば、この手塚訳でさえ、少なからず重苦しい。解説や脚注など、当ブログのような浅い読み方をよしとする読み手には不要な部分が多い。

 小山訳は、簡単なあとがきがあるだけで、あとは何もない。超人や、末人など、訳し方にそれぞれの個性が残るものの、本質的に違っているわけではない。読みやすさ、まるまんまツァラトゥストラを読む、という意味では、私なら、小山訳に軍配を上げる。小山訳なら、「かもめのジョナサン」や、ジブランの「預言者」のように、お気軽に、お手軽に読み通すことができる。

 しかし、それでいいのか。<1>巻の巻頭で、三浦憲一が「毒に感染しないで、毒を楽しむ」という文を40ページに渡って書いている。なるほど、そうとも言える。小山訳を読んでいる、ということは、ひょっとすると、毒なしのフグを食べている素人衆ということになりかねない。

 Oshoは、ニーチェの境遇に落ちたくなかったジブランは、ニーチェと同じことを書きたかったのだが、フィクション小説として「預言者」を書いた、としている。だから、カトリックのブラック・リストにも載らず、多くの読者を獲得し得た。しかし、それは、毒が排除されて、すっかり「安全」になってしまった「ツァラトゥストラ」だったのかも知れない。

 ここで、いくつもの「ツァラトゥストラ」を読み比べて比較検討する力はない。しかし、それぞれにその違いがある、ということだけは認識しておこう。虎穴に入らずんば虎児を得ず、の譬えもある。フグは悔いたし、命は惜しし、では、本当のニーチェを読んだことにはならないだろう。 

 10番目。カリール・ジブランによるもう一冊の本「狂人」だ。これを除外することはできない。もっとも、正直言うとそうしたかったのだが。これを除外したかったのは、私自身が彼が言っている狂人だからだ。だがこれを除外することはできない。カリール・ジブランは、その狂人の、まさに内奥の核について実に意味深く、真摯に語る。そしてこの狂人は、普通の狂人ではない。仏陀、臨済、カビールのような人だ。どうしてカリール・ジブランにこんなことができたのか、私はいつも不思議に思っている。彼自身は、その狂人ではなかった。彼自身は、光明を得た人ではなかった。彼はシリアに生まれたが、不幸にもアメリカで暮らした。

 だがそこには驚きに次ぐ驚き、解答のない疑問がある。どうやって彼はそれをしたのか? 多分、彼はそれを自分でしたのではない・・・・おそらく何かが、誰かが---スーフィーたちがヒジラと呼ぶ者が、神智学の徒がK・H、すなわちクート・フミと呼ぶ者が---彼に乗り移っていたに違いない。彼は乗り移られていた。だがいつでもではなかった。書いているとき以外は、彼はごく平凡な男だった。実際、いわゆる平凡な人よりももっと平凡だった。嫉妬や怒りや、あらゆる種類の激情でいっぱいだった。だがときたま彼は乗り移られる。上からの力に乗り移られる。そうすると彼を通して何かが流れ始めた。絵画が、詩が、寓話が・・・・。OSHO「私が愛した本」p133

 ニーチェとジブランを分けるもの。それは何か。ニーチェは「毒」を食らって命を落としたもの。ジブランは、ほんのちょっぴりフグの「毒」を味見したことのあるもの、そういう違いを見つけることができるかもしれない。しかも、それは自分で調理したものではなく、腕利きの免許を持った調理人に料理してもらったのだろう。ちょっとだけ舌がしびれる程度。

 初読時は、ひとつのジョーク、ひとつの例え話、として読んでいった「誰かが---スーフィーたちがヒジラと呼ぶ者が、神智学の徒がK・H、すなわちクート・フミと呼ぶ者が---彼に乗り移っていたに違いない」 という文章がにわかに信ぴょう性を帯びてくる。スーフィーやK・Hが、ジブランをメディウムとして使った、という可能性は残しておく必要がある。

 ニーチェを読んでいくにあたり、三浦がいうように「毒に感染しないで、毒を楽しむ」ということは本当にできるだろうか。

<10>につづく

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