<2>よりつづく
「ミルダッドの書」―灯台にして港 <3>
ミハイル・ナイーミ (著), 小森 健太郎 (翻訳) 1992/12 壮神社 単行本: 347p
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IBIHL1にリストアップされた10冊の本の存在を確認し、いくつかのヴァージョンからもっともお手頃そうな本を選び出し、一度はページをめくって見、時にはきちんと読み、それでもうまく入ってこない時は、日をおいて、もう一度、最初からめくって見る。そして、最初の行からその本に入って行けば行くほど、ますます分からなくなることが多い。
「ミルダッドの書」も、その存在を確認し、一冊の本として読む分には何の苦もないのだが、その背景を考え、しかも、その本を、あのOshoが、なんと「ツァラトゥストラ」、「カラマーゾフ」に次ぐ、第3冊目にリストアップしていることを考えると、すわ、何事ぞ!と浮足だってしまうことになる。
英語圏は知らず、すくなくとも日本語圏における、このミハイル・ナイーミの他のアラビア語作品の紹介は他にほとんどない。解説などで想像をたくましくするだけだが、その分だけ、この「ミルダッドの書」をためすがえす読みなおしてみることになる。
ここまでの3冊にでてくる、ツァラトゥストラと、例えば大審問官やゾシマ長老、そしてこのミルダッド、という預言者を出された時に、BIHL読書愛好会としては、自然にその共通項を見つけ出そうとする。
文字を中心とした「小説」という設定で、そこに「預言者」が登場し、ストーリーもそこそこに、預言者の姿を借りた作家自身の思想とも言える「箴言」が朗々と歌われる。このスタイルが存在し、このドラマツルギーの中で、作家たちがそれぞれに工夫していることもわかった。
ジョナサン、ミラレパ、クリシュナ、老子、荘子、イエス、思えばBIHLに登場してくる「預言者」たちのスタイルにはかなりの共通項がある。だから、それらのスタイルのひとつひとつの小さな違いを比較しながら、楽しむことは、そう簡単ではなさそうだ。ひきつづくアルムスタファーや列子、ソクラテス、ボーディダルマ、などなど、彼らとて、そのスタイルの中の別ヴァージョンと理解すれば、飲み込みも速い、というものだ。
さて、その「箴言」の内容だ。そそっかしい足早の一読者として、その文言に一度は視線を向け、その凹凸を確かめ、目立った個所に付箋を貼って、さて、お次は、と次なる本に手を出し続ける。このようなスタイルでは、「箴言」の中に並べられた、ひとつひとつの「預言」の十分な理解には至らない。
あせらずに、時間をはかって、何度か文字列を追っているうちに、自然と全体像が見えてきて、微妙な味わいが分かってくるかもしれない。そう思い直して、立ち止まる。
それゆえ、人間もまた、この聖なる三位一体、すなわち、意識、言葉、理解の三位一体である。人間もまた、神と同様に創造者である。人間の<私>は、人間の創造物である。それではなぜ、人間は神のようにバランスを持ちえていないのか?
もしこの謎の解答を知りたいのならば、ミルダッドがこれから明かすことをよく聞きなさい。p069「聖なる三位一体と完全なるバランス」
それぞれの預言者たちの箴言がまったく同じな筈はなく、また表現方法も違う。BIHLを読み進めるにあたっては、一体、この辺をどう対処すればいいのか。いくつもの預言者たちをリストアップし、そこから、一番自分にあった預言者をピックアップして、その中のさらにお気に入りのアフォリズムをメモして壁にでも張っておけばそれでいい、のか。そんなはずはない。
むしろここでは、それらの預言者たちの共通項を求め、さらには微妙な違いを感知し、味わい分けて行けるほどの感性を養っていくことのほうが大事だろう。そして、比較検討する、というより、それらの外在する預言者たちの言動に感応する部分としての、自らのうちなる「意識」を見続けていくことのほうが大事になってくる。
Oshoは10万冊以上の本を読んだそうだが、そこには特に目的はなく、単に楽しみのため、と言っている。リナックスの基礎を一人で造った、リーナス・トーバルスの著書のタイトルを思い出す。「Just for Fun」。それが僕には楽しかったから・・・。
預言者たちの箴言の中に隠された思想や哲学、それを理解し、比較検討し、体系づけるなどということは土台無理な話であり、当ブログのもともとの趣旨にも大いに反している。むしろ、その読書の中で見つめられるべきものは、外在者としての預言者や箴言の数々ではない。見つめられるべきものは、内在者としての自らの意識だ。
もし読書の過程において、そのような現象が起きたらもうけもの。今後はそのような姿勢を保つことで、よりスムーズに、そしてトータルにBIHLを楽しんでいけるのではないか、と思う。One Earth One HUmanityのカテゴリ名の元、読み進めてきたBIHLではあるが、そこに無理な「Oneness」を作り上げてしまうとしたら、当ブログの最初の趣旨に反することになる。そういう意味では「インテグラル」な方向に行こう、と思っているわけではない。
まもなく終わるこのカテゴリ名に次いで、次なるカテゴリ名は「No Earth No Humanity」とすることにした。Onenessではなく、Nothingnessへと向かう読書路である。問われるべきは書物の在り処や、作家の人生、箴言に隠された思想や哲学ではない。問われるべきは私自身であり、「私」のNothingnessである。その道筋において、これらのBIHLの本たちが大いに役立ってくれることを、今後も期待したい。
この地球が人間の住処であると同じくらい、明けの明星、銀河、昴星も人間の住処である。これらの星々は、光を人間の眼に投げかけるたびに、人間をおのれのところへ持ち上げている。人間はこれらの星々の下を通るたびに、これらの星々を自分のところへ引き寄せている。
あらゆる事物が人間の中に組み込まれている。その代わり、人間はあらゆる事物の中に組み込まれている。宇宙はたった一つの体である。その最小の部分と交流すれば、すべてと交流したことになる。p167「私たちは死後どこに行くのか」
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